~これでも仕事用です~

さよならブルーナ!

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先日、我が敬愛するディック・ブルーナが逝去されました。
追悼の意味で何か書こう、と思ったのですが、正直何を書いていいのかわからない。何しろワタシがブルーナを「グラフィックデザイナー」として意識したのが25年も前です。その間、ワタシの究極の目標はブルーナに少しでも近づきたい、でしたから、思いが強すぎて書きたいことが整理できないのです。

以前も書いたかもしれませんが、ワタシはGumi-chan1961にかかわるまでグラフィックデザイナーを生業としていました。
しかし始動は極めて遅かった。何しろ30歳になるかならないか、くらいの頃です。
それまでは自慢じゃないけど、グラフィックデザイナーになりたいなんて、いやグラフィックデザイナーという職種を意識したことすらなかったのです。

にもかかわらずブルーナは特別な存在でした。
何しろグラフィックデザインなんか興味がないのですから、その時点で本当のブルーナの凄さなんかわかるわけがない。でも、もし好きなデザイナーをひとり挙げろ、となれば、それはもうブルーナしかなかった。

ブルーナを初めて意識したのは、NHK教育の番組でした。
ディック・ブルーナといえばミッフィーですが、ずっと後年になってクレイアニメーション版のミッフィーNHK教育で放送されますが、それではない。

この頃(1990年代)に放送されていたミッフィーブルーナの絵本の絵をそのままアニメーションにしたようなもので、アニメーションといっても大々的に動くわけではなくFlashアニメみたいに絵が「スライドする」みたいな感じだったんです。
2006年に大阪で行った個展に、このイラストアニメ版ミッフィーを参考にして、グミちゃんのアニメを作った、みたいな話は以前に書きましたね。

しかしそんな番組のことも忘れた1990年代の終わり、アタシは偶然が重なりグラフィックデザインをやることになった。
が、何しろグラフィックデザイナーになんかなりたいともなれるとも思ってなかったわけで、当然何の勉強もしていない。だけれども「だからできません」と言えるような状況じゃなくなったのです。
こうなりゃ自分なりのデザイン手法を編み出すしかなかったのですが、そんな時、ふと頭に浮かんだのがディック・ブルーナだったんです。というかブルーナ以外グラフィックデザイナーなんか知らなかったし。

ま、一般にはブルーナといえば絵本作家です。果たして彼をグラフィックデザイナーといえるのかどうかもよくわからなかったのですが、学ぶとなったら一番好きなデザインから学びたい、という当然の心理から、本式にブルーナの研究をしてみたわけです。
すると、これはとんでもない人だ、というのが徐々にわかってきます。彼を絵本作家として捉えるというのは、あまりにも一面しか見てない、というのもわかってきたのです。

ディック・ブルーナは1927年オランダ生まれ。画家を志しますが挫折し、父親が経営する出版社に入社します。
そこでブルーナが任されたのがジョルジュ・シムノンなどのミステリ小説の装丁(本のカバーデザイン)でした。
「ブラックベア」と題されたシリーズはシンプルかつシックでインパクトの強いデザインで話題になりますが、一部をご覧ください。

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ひと言でいえば「カッコいい!」としか言いようがありません。
無駄をすべて削ぎ落としたデザインは、ある意味「究極のデザイン」といってもよく、当時のワタシは度肝を抜かされたのです。

その後ブルーナは、ご存知のようにミッフィーをはじめとする絵本を手がけるのですが、ここでも取り除けるものは全部取り除いた素晴らしいデザインは変わりませんでした。
ブルーナといえば「ブルーナカラー」ですが、赤、青、白、緑色、黄色、灰色、茶色、といった、たった7色だけですべてを表現する、といった手法も「削って削って、最後にどうしても必要な色」としてこの7色が選ばれたのです。

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ミッフィーは絵本ですから、当然「おはなし」が付随するのですが、絵本であるにもかかわらず「死」を表現するなど、現実から目を逸らしていない。
どんなシーンでも常に正面を向いているミッフィーですが、ブルーナ自身も正面から現実を見ていたんです。

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だからその世界で表現されるのは、たしかにうさぎが擬人化されたキャラクターというファンタジーの世界だけど、展開されるのは「現実」そのものであり、かといってけして残酷な現実を見せるのではなく、子供であっても起こりうる現実の予行演習を絵本の中でさせてくれているのです。
子供だからこれは見てはいけない、これは見たくないかもしれないけど見ておかなきゃいけない、という「ライン」を絶妙にひける、それがブルーナなんです。

以前書いたように、ワタシはまったく海外に興味がない人間でした。
しかし、もし、どこの国に行きたいか、と聞かれたら「オランダ」と答えていた。オランダで何がしたい?と聞かれたら、もちろん、ブルーナに会いに行きたい、と。

グラフィックデザイナーの頃から、そして今はGumi-chan1961という作品を通しても、ずっと目標であり続けてくれたブルーナ
あなたに一度でいいからお会いしたかった。噓偽りのない本心です。
しかしもう、その夢は叶わない。
だけれども、今も、そしてこれからも、目標であることには何も変わりはないのです。

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1961年の小学一年生

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2006年、ワタシがグミちゃんという作品に本格的に携わるようになって、まず始めたことは資料集めでした。
まずは以前書いた通り、時代設定をはっきりと1961年、という具合に定めたのですが、次にやることといえば、もちろん1961年の資料を徹底的に「洗う」ことだったんです。

後年になって再生産されたものではなく、あくまで当時の映画、当時の音楽、当時の雑誌、を集め、それを精査していくという作業です。
大変なのは大変だけど、これはこれで楽しい。調べるほどに新しい発見があるからです。

とくにグミちゃんは小学生ですから、1961年の子供について調べようと思ったんだけど、これが意外とない。後の時代に作られた資料はあるんだけど、リアルタイムでの資料が非常に薄くてね。
だから今回紹介する、1961年6月号の「小学一年生」(小学館)を見つけた時はホントに嬉しかった。わざわざ神保町まで足を運んだ甲斐があったというものです。

ただし、もうホントにボロボロです。元からボロかったってのもあるんだけど、個展の時に自由に閲覧できるように置いておいたら、さらにボロくなってしまいました。
裏表紙はないし、破れたページも多い。あとこれは買った時からだけど、切り抜きしたページが結構あるんです。

では見ていきましょう。

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↑ 表紙。見てもらったらわかる通り、1961年6月号です。
この表紙の感じが如何にも小学館の学習雑誌って感じで実に良い。
そういえば小学二年〜六年までを対象にした小学8年生なる雑誌が出るみたいね。なんかよーわからん

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以前取り上げた大鵬。周りのイラストがいい感じです

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↑ これもいい雰囲気。ただ思いっきり商品名がこっちに向いてるので、ま、半分タイアップなんでしょうな

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↑ なんと!「サザエさん」です。しかも四コマ漫画じゃない。
よーく読むと下の方に「長谷川町子先生のご好意で、このまんがを再掲載させていただきました。」とあるのは、大人の事情のニオイがプンプンです。
ま、「さざえさんとわかめちゃん」の本連載は1957〜1959年なので再掲載なのには違いないのですが。
ちなみに「小学一年生」のライバル雑誌だった講談社の「たのしい一年生」にも「わかめちゃんとかつおくん」という作品が掲載されていたようです

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↑ 盛大な切り抜きがあるのでわかりづらいですが漫画のタイトルは「すすめぴろん」。作者名として藤子不二雄とありますが、実際の執筆は藤子・F・不二雄の方です。
ただし正確には作者は藤子不二雄ではない。元となったのは「ピロンの秘密」という作品で、この作者は手塚治虫です。ちなみに当時実写ドラマにもなっています。
それにしても手塚治虫藤子・F・不二雄とバトンタッチした作品はこれくらいじゃないでしょうか

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↑ うーん、これは狙ってない分、余計すごい。
だってタイトルが「しろばいたいちょう らいおんたろう」ですよ。「白バイ野郎ジョン&パンチ」のはるか前ですよ。関係ないけど。
タイトルもいい、絵柄といい、表紙の「たろう」の表情といい、いろいろ完璧です

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↑ 少女漫画の基礎を築いたといっていい、わたなべまさこの作品。絵が実に良い

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↑ 「うしろの百太郎」や「恐怖新聞」でお馴染み、つのだじろう作です。もちろんホラー要素はない(もちろん空手要素もない)ほのぼの漫画です

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絵物語作家の大家、山川惣治の作品も掲載。それはいいのですが

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↑ カズミ・アカオに言わせると右端のキャラクターがワタシだそうです。うん、言い過ぎですね。
ま、時代が時代なので、ヤバめのセリフが多いです

さてさて、どうもこの当時、小学館としてテレビ番組枠を持っていたようで、この当時放送されていたのが「わんぱくパトロール」というドラマだったみたいでね。

 

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↑ 広告と予告(?)

で、これの漫画版も連載されているのですが

 

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↑ これ、ものすごく好きなんです。何というか、グミちゃんをリアルタイムで漫画にしたらこんな感じだったんじゃないか、みたいな展開なのもウレシイ。
絵柄もとても可愛らしくて最高です。これ、まとめて読みたいなぁ。

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↑ 最後は広告。もちろんこの当時なので瓶です

ワタシはこれから約8年後の小学三年生も持っているのですが、今回紹介した1961年版小学一年生との一番の違いは「芸能情報の有無」です。
1969年版小学三年生が誌面の随所に芸能人が登場するのにたいし、1961年版小学一年生は関取の大鵬と「わんぱくパトロール」主演者が例外で、あとはまったく芸能人が出てこないのです。

もちろん一年生と三年生といった対象年齢の違いもあるんでしょうが、やはりこの時代までは芸能人は大人のもの、だったんでしょうね。
ちなみにカズミ・アカオの実年齢(1969年度に小学三年生)を鑑みれば、1969年版小学三年生はリアルタイムで読んでいた、ということになります。
以前グミちゃんの世界はタイムラグがある、と書きましたが、こうやって見るだけでも、タイムラグ効果は予想以上に大きいのです。

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ヨコハマ昭和旅

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今回はちょっと変わったことを。

長らく神奈川県に在住していながら、そしてそういった情報をかなり前から知っていながら、スルーし続けた場所があります。
それはJR鶴見線国道駅です。
とにかく「昭和の頃の高架下の雰囲気が残っている」と評判で、実際行った人のブログ記事も相当数ありますし、テレビの情報番組で紹介されてたのも見たことがある。

それでもワタシは足を運ぼうともしなかった。
はっきりいって、この手の「昭和の香りがする」スポットは食傷気味で、散々いろんな場所に行ったし、そしてほとんどの場合期待を裏切られてきた。
もうぶっちゃけていえば、どこもかしこも、わざとらしすぎる。正直それなら「テーマパーク」として完全に割り切っている、新横浜ラーメン博物館や台場一丁目商店街の方が楽しめます。

そもそもの話ですが、昭和の、それも中頃くらいまでに建てられた普通の民家は、全部とは言わないけど、いろいろ寿命がきている場合がほとんどです。
古い木造建築を長く使うとなったら、ものすごく手入れをしなきゃいけない。たった一軒ならともかく、街全部の木造建築の状態を保持する、なんて、もうほぼ不可能です。

ただ今回ワタシが訪れた国道駅は、かなり特殊な環境で、風雪に耐えやすい高架下だったこと、さらに鶴見線という完全な支線であったため大掛かりな改装の必要がなかったこと、など、すべてが上手い具合に作用して、偶然「昭和的」な空気が残ったんですね。

それでも、写真や映像で見れば十分、わざわざ行くまでもない、と思っていたのですが、地図で国道駅周辺を調べてみると、ある事に気がついた。
ある事ってのは、後で書きますが、とにかく行ってきたわけです。国道駅に。

まずは京浜東北線鶴見駅へ。そしてそこから鶴見線に乗り換えるのですが、鶴見線のプラットホームからして、いい感じに寂れている。
うん、まずは良い良い。

国道駅鶴見駅の次の駅、時間にして2、3分ってところですか。だから旅愁気分に浸る間もなく、アッという間に、国道駅に着いた。
ちなみにこの国道駅、無人駅ですが、さすが時代です。ちゃんとスイカをタッチできるようになっています。

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↑ こんな感じ。これで早く雰囲気が出ないのでモノクロに加工してみます。

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↑ 頑張ったらさすがにそれっぽくは見えるけど、ここまでやったら大抵の場所はそれっぽく見えるよな

ところでこの高架下、黒澤明の初期の名作「野良犬」でロケ地として使われた、とありますが、これがどこのことだかさっぱりわからない。
ワタシは「野良犬」にかんしては、もう擦切れるほど観ているんだけど、まったくどこのシーンかわからないんです。

というか、この話、本当なのか?つか「野良犬」が作られたのが1949年。この頃ならこういう高架下は都内にも山ほどあったはずで、わざわざ鶴見までロケに来たってこと自体が、にわかに信じられない。
「野良犬」は新東宝製作なので、製作資料が残っていなさそうなのが残念です。東宝なら、たとえば「醉いどれ天使」の製作資料が結構残ってたりするんだけどさ。

なんか今回は口が悪いな。もう少しお上品にまいります。

さてさて、先ほど地図で何かを発見した、みたいな感じで書きましたが、その続きです。
国道駅から徒歩数分の場所に、京急花月園前、という駅があります。
・・・花月園花月園って、もしかして、あの花月園!?

ここから昭和は昭和でも、当ブログのもうひとつの軸である戦前モダニズムの話に飛びます。
今現在、「花月園前駅」なんて言われても、肝心の花月園が存在しないので何のことかわかりづらいのですが、かつてここは日本でもトップクラスのアミューズメント施設があった場所なんです。
その名前こそが花月園で、時代でいえは大正時代になります。

『当初の敷地は2万5千坪であった。動物園、噴水、花壇、ブランコなどの施設から始まり、「大山すべり」、「豆汽車」などのアトラクションが追加されていった。』(Wikipediaより)

ここまでだったらワタシはそこまで興味は惹かれない。しかしここからがワタシ的に凄い。
動物園などと併設される形で「日本で最初」の本格的ダンスホール花月園内に設置されたのです。
ここで当時最先端だったジャズが演奏された、というのはワタシ的には胸が熱すぎる。

プレーヤーも当時のトップクラスで、瀬川昌久氏の「ジャズで踊って」によると、宍倉脩、阿部万次郎、仁木他喜雄、原田六郎、井田一郎、といった錚々たるメンツで、とくにジャズの発展に大きく貢献したのは、プレーヤーとしては井田一郎、そしてコンポーザーに転じた仁木他喜雄でしょう。
ま、この辺の話は深くやり過ぎると嫌がられるんでおしまい。

しかし昭和に入ってから都内にもダンスホールが出来、また遊園地は遊園地でもっと便利な場所に出来始めたこともあって、経営が悪化し倒産、遊園地跡は競輪場になりましたが、それも2010年で廃止になっています。
だから今現在は何にもないのです。でも跡地に行ってみたいのは行ってみたいし、先の国道駅とセットなら、と思って、ね。

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国道駅から花月園前駅に向かう途中、こんないい感じの店がありました

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↑これが京急花月園前駅

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↑ 歩道橋で線路を渡ります

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↑ かつてこんな感じだった場所が

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↑ 今はこんな感じに。完全に造成地です。ま、わかってたんだけどね

でも正直ね、一番「昭和」を感じたのは、国道駅でも花月園跡地でもなく、京急の鈍行の座席でした。
長いシートで、とにかくクッションが異様に柔らかい。
そうそう、昔の電車のシートって、異様に柔らかいか、逆にクッション性ゼロのガチガチに硬いやつか、どっちかだったんですよね。

わざわざ行った場所ではなく、思わぬところにこそ「昭和」はあるんです。それを再確認できただけでも良い旅でした。

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笠置シズ子・レコーディング曲傑作選

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ずっと、ちゃんと笠置シズ子の楽曲について書かなきゃとは思っていたんです。でも当ブログで取り上げるには問題が多すぎるわけで。

以前書いた通り笠置シズ子は戦前期から圧倒的なパフォーマンスを(大都市部の人だけとはいえ)知らしめていたのですが、戦前にレコーディングされた楽曲は「たった8曲」しかない。もう一度いいます。「たった8曲」です。
この8曲、たしかに粒ぞろいで、本当に勢いのあった頃の笠置シズ子の魅力が爆発しているのですが、いくら戦前モダニズムに魅せられているワタシでも、この8曲だけをもってして、これが笠置シズ子のすべてです!と言い切る自信がない。

そうなると、「東京ブギウギ」をはじめとする戦後に録音された曲も含まなきゃならなくなる。
それはぜんぜんいいんだけど、この「Goodlucklight!」てなブログは、戦前までが守備範囲で、時代が飛んで1960年前後からまた守備範囲になる。
つまり1945〜1955年という戦後混乱期がすっぽり抜けているのです。

これはあんまりよろしくない、ということで、こんなことこんなことこんなことを書いたけど、まァ、これらは補完の意味があるから、構わない。
でも笠置シズ子の楽曲を語るとなると、完全に補完を逸脱する。Gumi-chan1961の世界と何の関係もなくなる。
でもまあ、笠置シズ子にかんしては例外中の例外ということで勘弁してください。カテゴリも「戦前モダニズム」のままやります。

長ったらしい言い訳はさておき、笠置シズ子の公式レコーディング曲は「遅れてきた世代」である現代の人間にも追いやすい。ほぼすべての楽曲が「ブギの女王・笠置シヅ子」という3枚組CDに収録されているからです。まだディスコンになっておらず、アマゾンでも普通に買えます。

ということで、なるべくわかりやすく、ほんならいっちょう、CDでも買うてみよかいな!と思えるように書ければ、と。

「ラッパと娘」
「ヴォーカルVSプレイヤー」という構図をここまで鮮やかに打ち出した楽曲は後にも先にもない、極めて野心的な曲です。詳しくはココを参照。

「センチメンタル・ダイナ」
戦前の大スタンダード曲「ダイナ」を大胆にアレンジし、よりクールに、より情感的に、そして何より戦前の空気感を詰め込んだ快作です。

「ペニィ・セレナーデ」
ケイリー・グラント主演の同名映画(邦題は「愛のアルバム」)と同年に発表された曲です。(ただし「愛のアルバム」の日本公開は戦後)
「リズムに乗って軽く歌う」という、ダイナマイトヴォーカルの笠置シズ子のイメージとはまた違う魅力を発揮しています。
個人的にはかなり好きな曲で、笠置シズ子とはズレるけど、間奏のピアノソロが良いのです。

ここからは戦後録音になります。

「アイレ可愛や」
録音は戦後ですが、戦中にジャズを歌うことを禁じられた笠置シズ子のために服部良一が作った南方民謡ふうの楽曲です。
桃源郷のような空気感の曲を伸びやかな声で歌っています。

「東京ブギウギ」
笠置シズ子といえは東京ブギウギ、といえる代表曲ですが、手始め、といった感じで、個人的にはその後の名曲の量産の起点としての価値しか見出せません。

「さくらブギウギ」
「東京ブギウギ」が鉱脈だったことは、続いて発表されたこの曲の登場ではっきりします。
春になると聴きたくなる名曲。

「ジャングル・ブギー」
黒澤明の傑作「醉いどれ天使」で歌われたことで有名です。そして作詞が黒澤明なのも、「腰の抜けるのような恋をした」という箇所に笠置シズ子が抵抗し「骨の溶けるような恋をした」に変更になったのも、これまた有名ですね。

「ホームラン・ブギ」
笠置シズ子の楽曲には珍しくサトウ・ハチローの作詞ですが、野球好きで知られたハチローだけに見事に野球ファンのハートをくすぐる歌詞になっています。
2000年代に入ってから吉田拓郎がカバーしてましたね。

「買物ブギー」
空前絶後の大傑作。その後いろんな人がカバーしましたが、こればかりはひとつとして笠置シズ子の歌唱を超えた人はいません。
服部良一から口酸っぱく言われていた「地声で歌え」という指示が全面的に活かされています。

「黒田ブギー」
大ヒットした「東京ブギウギ」に続いて各地のご当地ブギをいくつか発表していた笠置シズ子X服部良一ですが、どれもこれも、セールスはともかくイマイチ出来が芳しくない。
博多をテーマにした「博多ブギウギ」という曲も出してますが、これもイマイチで、しかしとんでもない形でリベンジを果たしています。
誰が「黒田節」を「日本のブルース」と見立ててブギウギとマッシュアップしよう、なんて考えますか!

「オールマン・リバップ」
今度は「オールマン・リバー」とビバップマッシュアップ
ホント、この頃の服部良一は冴えに冴えてますね。

七福神ブギ」
ブギと銘打たれた最後の曲ですが、これまでのブギものの集大成の如く弾みまくっています。
余談ですが、ワタシはこの曲の歌詞のおかげで七福神全員の名前をスラスラいえるようになりました。

「タンゴ物語」
「タンゴの発祥は京都の丹後地方だった!」というオドロキの珍説を歌いあげています。
途中「宮津節」と「ラ・クンパルシータ」が歌い込まれていますが、とくにタンゴの名曲中の名曲「ラ・クンパルシータ」は戦前から笠置シズ子の十八番で、短いフレーズとはいえレコーディングされているのが嬉しい。

「おさんどんの歌」
おさんどん、というのは炊事場専任の女中のことで、悪い言葉でいえば飯炊き女です。
しかしそこは笠置シズ子。徹底的に明るく「おさんどん」という職業を心底楽しんでいるのが伝わる内容になっています。

「私の猛獣狩」
どういう事情か服部良一が外れ、美空ひばりと組んで「お祭りマンボ」などを作った原六朗の作詞作曲です。
基本線は服部サウンドを踏襲しているものの、歌詞、アレンジともにさらに馬鹿馬鹿しさをパワーアップさせています。

「めんどりブルース」
なんと雌鶏の気持ちを歌った怪曲。情感たっぷりに歌えば歌うほど、テーマがテーマなので可笑しい、という。何しろ雌鶏の気持ちですから。

「男はうそつき」
まァ、騙されやすい女をテーマにしたタンゴ調の曲なのですが、湿っぽさなどまるでなく、あまりにも悲惨すぎて笑えてしまう、という中島みゆき(たとえば「ひとり上手」)の元祖ともいえるものに仕上がっています。

いかがでしたでしょうか。いやいや、マジで聴いて欲しいなぁ、カサギ。

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続・おとうさん!

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昨日書いた「おとうさん!」の続きです。

カズミ・アカオの父君であるトミオさんとグミちゃんのお父さんの経歴で完全に同じなのは「気象庁に勤務していた」という箇所です。
勤務地は出身の福井県小浜市から近い福井県敦賀市の気象観測所。電車で1時間ほどの距離です。もちろんこの頃は電化されておらず汽車でしたが。

ただし正確には気象庁ではない。ここで少し堅苦しい話をします。
気象庁の名称というか、気象庁という機関が出来たのは1956年、つまりトミオさんが退職した後のことです。

しかしそれ以前から気象を観測するための機関はありました。
明治時代に内務省から文部省に管轄が移り、1943年に運輸通信省、さらに1945年(戦争末期)に運輸省に管轄が移ります。
つまりトミオさんは、文部省→運輸通信省運輸省の各機関で働いていた、ということになります。

名称はともかく、気象情報を観測するための機関であることには変わりなく、当然トミオさんの仕事は天気予報で活用されるものです。
と言いたいところですが、落とし穴があります。
さらに堅苦しい話をすれば、1941年12月8日。言うまでもなく真珠湾攻撃の日であり、それはアメリカとの開戦を意味します。

実はこの日を境に、ラジオを通じて天気予報は行われていません。再開は終戦後ですから、戦争中は一般市民は一切天気予報を知ることができなかったのです。
もちろん敵国に天気を教える必要はない、という情報統制の影響ですが、ではすでに始まっていた支那事変は?というと、別に天気予報が中止されるようなことはなかった。
この辺りの事情はもうひとつわからない。遠い敵国より近い敵国の方がより天気なんて情報は有用そうなのにね。

まァ、それはいい。
そんな戦時体制の中でトミオさんが何をしていたか、は、やはり気象にかんすることでした。勤務地が気象観測所なんだから当たり前です。
しかし観測された情報は一般には公開されない。ではどこで活用されたかというと、いうまでもなく「軍事」情報として活用されたのです。

もっと言うなら、当時の天気予報はいわば「重要機密情報」であり、逆にいえば気象観測所からも軍部の動きが手に取るようにわかったらしい。
実際トミオさんも軍部の動きを掴んでいた。そして、かなり早い段階から「この戦争は負ける」と思っていたようです。

昨今作られる映画やテレビドラマで、この時の戦争をテーマにした作品はかなりありますが、正直にいえば間違いだらけです。いや、リアルタイムの空気を知らないワタシでさえ「おかしい」と思うくらいだから、実体験を経た人にとっては正視に耐えられないはずです。

基本的なことですが、少なくとも1944年くらいまでは、誰も日本が負けるなんて思っていなかった。もちろん大本営発表について「どうもおかしい。勝報のニュアンスが『控えめ』になってきている」と一部の鋭い人は気づいていたみたいですが、それでも最終的には「勝つ」と信じ切っていたようで、本当に一般市民がヤバいと思い始めるのは1945年になって日本全国で空爆が激化してからでしょう。
つまり約4年に渡る戦時の中で、危機感を抱いたのはおそらく半年ほどなんです。

でも逆にいえば、負けると思いながら戦時のがんじがらめの生活が耐えられるわけがない。勝つと信じればこそ耐えられたわけです。
しかしトミオさんは違った。職業柄一般市民よりも早く「負け戦さ」を悟った。他の人がわずか半年しか耐えずに済んだものが、もっと早く(具体的にいつかはわからない)知りえて、その期間を「耐え忍んだ」んだから。

この出来事が後年のトミオさんにどれほどの影響を与えたのかは計り知れない。
前回「トミオさんは勝負勘に優れた人だった」と書きました。もちろん「勘」自体も、鋭かったのかもしれない。
しかしそこに独特の諦観も宿っていたはずです。

トミオさんにとって戦争末期は「負けるとわかっていて、なお戦い続けなければいけない」勝負でしたが、商売は「勝つか負けるかはわからない。やりようによっては、自分の力でいくらでも勝ちに繋げることができる」ものです。
だからこそ店の立地や展開の仕方にはこだわった。勝てる勝負に持っていくために。

自動車の時代と予見しながら、まだ自動車など小浜のような小都市ではほとんど走っていない時代、とあって自動車にはこだわらず、荷車の修理から商売を始めました。
そして自転車も手がけた。Gumi-chan1961の設定は自転車屋さんですが、自転車がメインだった期間はほんのわずかで、すぐに本命であるタイヤ販売に切り替えたらしい。もちろんモータリゼーションの時代になったからです。

当時、トミオさんの店で扱っていたのは「セキネ」というメーカーの自転車だったらしい。ちなみに現存しません。
この頃も細々とはいえタイヤも扱っており、タイヤにかんしてはブリヂストンの代理店になっていた。
なら自転車もブリヂストン、となるのが普通ですが、すでにブリヂストンの自転車を扱う店が近隣にあり「地域ごとに1店舗」というブリヂストンの方針があったために扱えなかったのです。

そのうちタイヤの方で売り上げを伸ばし、「地域ごとに1店舗」という縛りもなくなったこともあって、今度はブリヂストンの方から自転車も代理店になってくれ、という話が何度も持ち込まれるようになった。
ところがこれをトミオさんははねつけている。

考えられる理由はふたつあります。
ひとつはすでにブリヂストンの店があること。今さらそこから客を奪うのは容易ではない、という商売上の判断です。
もうひとつが「セキネ」というメーカーに惚れ込んでいたことです。

そもそも何故数ある自転車メーカーからセキネを選んだか、です。これはカズミ・アカオの母君に直接聞いたことがあります。
「そら、セキネが一番シナ(品質)が良かった」
ここらあたりに「売れたらええってもんやない、エエ物を売らんとアカン」というトミオさんの信念が隠されています。

タイヤのパンク修理にかんしても、トミオさんは小浜ではただひとり、という技法を持っていたといいます。
その技法のせいで肺を痛め、早逝されることになったのですが、仮に自分の身を削っても商売を成功させる、というと聞こえが悪いかもしれません。

でも「せっかく自分とこのお客さんになってくれたんや。儲けだけにこだわらんと出来るだけのことをせなアカン」という「情」がなければ身を削ってまでやるわけがない。
今日はちょうど、トミオさんが亡くなって25年目の命日です。
これからワタシたちも、トミオさんの精神は大いに見習わなくては、と痛感しておるのです。

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おとうさん!

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今回はグミちゃんのお父さんのことを書いてみたいと思います。
ということはカズミ・アカオの父君のことを語ることになるわけですが。
まずは以前書いた、グミちゃんのお父さん、青田富夫のことを引用しておきます。


本名 青田富夫。1921年1月19日生まれ。1961年時40歳。
松浜市立楠木尋常小学校→松浜市立楠木高等小学校→松浜市立楠木中学校(旧制中学)を経て、気象庁に入社。
終戦を機に気象庁を退職し、地元の松浜市にて自転車店を起業。屋号は「青田自転車店」(創業時は青田輪業)。
初期はまだ自転車が普及していない時期だったため、荷車の修理で生計を立てていた。
1947年、西麻子と結婚。1950年、長男登志夫誕生。1955年、長女グミ誕生。1961年、次男誠誕生。
1960年頃より、自動車のタイヤも取り扱うようになる。
普段は寡黙で温厚だが、実はグミ以上の変人。


現実とGumi-chan1961の世界は6年のタイムラグがありますから、実際の生年はもう少し後で、細部も変更してあります。
で、実際はどうだったかを書いていこうかと。

カズミ・アカオの父君の名前はグミちゃんのお父さん同様「トミオ」です。
他のお母さん、お兄ちゃん、そしてグミちゃん自身、すべて架空の名前にしているのに、お父さんだけは実名。
ワタシは最初、お父さんも仮名にした方がいいんじゃないかと思ったのですが、カズミ・アカオの強い要望でお父さんだけ実名になりました。理由は、・・・よくわかりません。

Gumi-chan1961の設定では「終戦を機に気象庁を退職」したことになってますが、実際は1947〜1948年頃までは在籍したようで、いきなり店を構える、というようなことはせず、どこかでタイヤや自転車にかんしての店で修行したようです。
この辺は6年のタイムラグを埋めるために「駆け足」になってしまいました。

もちろんグミちゃんのお母さん=カズミ・アカオの母君と結婚したのは1947年ではなくずっと後で1954年です。

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↑ 新婚当時の写真。大阪で個展をやった時にこの写真をパネルにしたのですが、それを見たカズミ・アカオの母君「お父さん、今こうやって見たら意外とイケメンやったんやなぁ」。イケメンって。たしかに男前なのですが。

トミオさんは最初から自動車関係の店がやりたかったらしい。
「これからは自動車の時代!」ということに目をつけたのは先見の明だと思いますが、だからと言って気象庁(じゃないけど、詳しくは次回)を退職するってのは思いっきりが良すぎで、この大胆さは見事にカズミ・アカオに受け継がれました。

トミオさんは修行を終えた後、自身の故郷でもある福井県小浜市で自分の店を始めるわけですが、店を構えたのは数年前まで沼だったところを埋め立てた場所だったらしい。
だから安く借りれたのですが、いくら安くても商売が成り立たないと話になりません。
しかしトミオさんには勝算があった。

この辺りはもう少し説明が必要になります。
昔はそういう場所が多かったのですが、小浜市も例外ではなく、駅前より少し離れた海沿いの場所の商店街が一番栄えていたらしい。
しかしトミオさん、これからの時代、駅前の方が栄える、と読んだのです。
この目論見は見事に当たるのですが、他にもこの手のエピソードが多くあり、終生「勝負勘」に優れていました。

しかし勝負勘はあれどトミオさん、身体が弱かった。これを支えたのが「異様なほど身体が強い」カズミ・アカオの母君で、つまり身体は弱いが勝負勘に優れて決断の早いトミオさんと、パワフルなその妻のコンビで店を成長させたのです。

私生活のトミオさんは相当変わり者だったといいます。
何しろワタシがカズミ・アカオと知り合う10年以上も前に亡くなっているので、実際にお目にかかったことはないのですが、カズミ・アカオの印象では「とにかく変な人」だったらしい。変人さにかけてはカズミ・アカオも相当なもんだと思うけど。

カズミ・アカオがイタズラでソースとしょう油の中身を入れ替えたのを「ほう!そんなことを思いついたんか!アンタは天才やなぁ!」と褒めたり、かと思えば普段は温厚も温厚なのに、ヤクザと喧嘩してパトカーに乗せられて血だらけで家に帰ってきたり、カズミ・アカオの母君ですら「何を考えてるのかわからん」というような人だったようです。

トミオさんには他にも変なクセがあって、カズミ・アカオの顔を見ると頭を撫でながら「ワーターシ(何故か娘のことをこう呼んでいた)、ご飯食べたんケ?」と必ず聞いたそうです。
ま、幼少の頃ならわかるのですが、カズミ・アカオが成人してからも、ずっと同じ調子だったと。

さすがに大の大人が頭を撫でられてこんなことを言われることにたいしてムッとしたそうで、高校に上がる頃から、頭の手を払いのけるようになったらしい。
しかしこのことをカズミ・アカオはずっと後悔しています。
「何でそれくらいのことで、あんなに怒ってしまったんやろ」と。

トミオさんの中では、カズミ・アカオはずっと子供のまま、つまりグミちゃんのままだったのでしょう。
だからGumi-chan1961は、トミオさんの夢の中の世界なのかもしれません。
一番幸せだった頃で時間が止まった夢の世界。つまりGumi-chan1961はトミオさんが中心の世界でもあるのです。

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年賀2017年

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あけましておめでとうございます。今年もGumi-chan1961、並びに当ブログGoodlucklight!をよろしくお願いします。

昨年中はワタシが体調不良になったことにより、12月以降はまったく更新できませんでした。
不慮のこととはいえ、こういうことになったのはワタシとしてはかなり不覚です。
しかし、体調不良はしょうがないにしろ、いろいろ見通しが甘かったってのも事実でして。

そもそもの話ですが、いくらなんでも週3回更新ってのが無理がありすぎたんです。
一昨年までは週2回更新だったものを3回に増やしたのですが、これには理由があります。
一昨年末の段階で、とにかくエノケン映画のレビューをはじめとした戦前モダニズム関連の未エントリテキストが山のようにあったんですね。んで、とにかくこれを早く消化したかった。

かといって、あくまでここはGumi-chan1961公式ブログです。あまりにも戦前モダニズム関連のエントリばかりになるのはよろしくない。
となると、もう更新回数を増やして、戦前モダニズム以外のネタもいっぱい書いて、戦前モダニズムネタを「目立たなく」するしかなかったのです。

でもねぇ、書きやすい戦前モダニズムネタと違って、たとえば人形・ジオラマ関係ネタとかはそうそう書けない。だいいちワタシ自身そこまで詳しいわけでもないし、となったら完全に一から調べて書かなきゃいけなくなる。
さすがにそれを週に一回、は無理でした。ホント、無茶しすぎたっていうか。

なので今年からは、更新回数をグッと減らします。
とりあえず体調が戻るまでは不定期、それ以降は最低週に1回、くらいの感じでやっていきます。
場合によっては週に3回とか更新するかもしれないけど、ま、いろいろ様子を見ながらってことで。

Goodlucklight!のインフォメーションはここまで。
ここからはGumi-chan1961にかんして書いていきます。

まだ詳細は何も決まっていないのですが、今年はかなりどデカイことをやる予定です。
一昨年、昨年は、いわば「待ち」の状態だったので、動くに動けなかったのですが、今年は違います。本格的に勝負をかけます。
詳細が決まり次第、ここにて、またFacebookにてお知らせする予定です。

具体的には書けないのですが、ちょっとGumi-chan1961の「1961」という枠から外れたことをやろうと思っています。
今までのGumi-chan1961はどうしても昭和というか、懐かしい光景を背景にした作品、という枠にとらわれていたのですが、やはりそれだけではグミちゃんの味の何分の1しか表現できない、ということに気づいたのです。

ワタシたちのGumi-chan1961は、人形とジオラマをパッケージングすることを前提として売り込んできました。
しかし本来、カズミ・アカオは人形が専門であり、ジオラマにかんしては、こういうことが得意ではないワタシが半ば無理矢理制作していたのです。
人形を引き立たせる補助になれば、くらいの考えでジオラマもやってきましたが、それよりもグミちゃんという人形の単体の可愛さを強調すべきではないか、とも思い始めたのです。

以前も書いたようにグミちゃんは、昭和中頃のノベルティ人形と、アメリカのボブルヘッド人形の折衷というか、いいとこ取りして考案したデザインです。
日本の昭和を舞台背景にしながら、イギリスで受け入れられた理由は、このどことなく欧米テイストが入っていたことにあると考えています。

ならば、そういったポップさをもっと前面に出すべきではないか、一旦昭和という背景から切り離すべきではないか。

Gumi-chan1961とは地続きではない、アナザーワールドというか、夢の世界でグミちゃんを活躍させたい。そうすることによって、余計1961年の世界も引き立つはずだ。

デザインも、今のグミちゃんをさらに発展させて、さらにポップで可愛い人形にしよう。そうすれば、堅苦しい理由や理屈抜きで、もっとグミちゃんを愛してくれる人が増えるんじゃないか。

そのために、一昨年から様々な「策」を練りました。そしてそのうちのひとつを今年、大々的に展開する予定ですが、それ以外にも様々な「ポップで可愛いグミちゃん」をみなさんにお披露目できれば、と思っています。

今年のグミちゃんは面白いです。期待しててください。きっとみなさまの期待を超えるものを提供できると信じています。
それでは、昨年以上のご愛顧、よろしくお願い申し上げます。

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