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~これでも仕事用です~

申し訳なくも、今年最後のエントリ

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ご無沙汰しております。という挨拶から始めなきゃいけないくらい、更新間隔が空いてしまいました。
年末に向けて、いろいろ企画を予定していたのですが、すべてパー。というのもですね。

Facebookで軽く書きましたが、12月に入った頃から体調不良に悩まされています。
あんまり詳しく書くといろいろ差し障りがあるから控えますけど、とにかく外出もままならない日が続いています。
それでもどうしても行かないわけにはいかない仕事の打ち合わせなんかは行くんだけど、やっぱ辛くてね。

そうなると正直ブログどころじゃない。
どのくらいおられるかわかりませんが、このブログを丹念に読んでいただいている方ならお判りの通り、実は結構手間暇かけて調査してブログを書いています。
ハンドルネームでやってる方のブログはテキトーっつーか、考えてることを書くだけなので楽なのですが、ここはそういうわけにもいかない。何といっても「一応仕事用」と銘打っているわけで。今回みたいな、調査も何もない駄文ならいくらでも書けるんだけど。

それでもね、普通ならアップしてない文章のストックがあるんです。でもタイミングが悪くてちょうどストックを切らせた時に体調不良になってしまった。
しかも調査はしたけどまだ文章にしてない、なんてネタも大抵あるんだけど、これまた何もなかった。
たぶんこのブログを始めて初めての事態だったんだけど、調査を予定していたこともあったし、まァ、何とかなるだろう、とタカをくくっていたんです。
まさか急に体調不良になるなんて思わないもんね。

事情説明はこれにておしまい。とはいえ、さすがにこれで終わるわけにもいかないので。

外出もままならない、とは書きましたが、先日、はがいちようさんと飲んできました。
たまたまその日は体調が良かったので、ま、無理しなければ大丈夫だろうと。はがさんとふたりなら長時間になる心配もないし、上手く調整すればそんなに身体の負担にならないだろう、ということでお誘いに乗ったわけです。

もうこのブログでも何度も登場していますから、あらためて紹介の必要もないでしょうけど、「はがいちよう」さんとは、もちろん日本が誇るアーティスト、情景作家のはがいちようさんです。
あんまり言うと怒られるけど、他に紹介のしようがないもん。別に間違ってるわけでもないし。

はがさんと飲む時は、いつもふたりきりです。ワタシとはがさんの年の差はちょうど20歳。親子ほど、は言い過ぎだけど、友達というにはトシが離れすぎています。
しかし間違っても師匠と弟子ではない。ワタシははがさんに仕事にかんしては何も教えてもらってないし、というか、一応とはいえGumi-chan1961のプロデュースをしているワタシ、そして情景作家のはがいちようさん、とミニチュアを通した関係であるにもかかわらず、作品の話なんか何ひとつしませんからね。

もう、常に雑談だけ。さすがにはがさんが個展終わりの時なんかはその話はしますが、それも結局は作品の話にはならずに別の方向にズレていく。
しかもだいたい途中ではがさんがヘベレケになるから、真面目な話をしてもグチャグチャになるし。本当はメチャクチャ聡明な人なんだけど、酔うとダメだね。誰でもそうだけど。
でもワタシは、それが楽しくてしょうがない。

そもそもですが、飲みにいくといっても、ワタシはあまり酒が強くないのです。まったく飲めないわけじゃあ、ないけど、濃いめのウーロンハイを延々飲み続けるはがさんに対抗できるような飲み方ができるわけがない。

でもはがさんは、絶対にワタシに無理強いをしない。一度たりとも「もっと飲めよ」なんて言われたことがない。どころか「無理しなくていいよ」といつも言ってくれる。
もちろん説教なんて絶対にしない。あくまでワタシの立場を理解して優先してくれる。

だからワタシは何も緊張することも、嫌な思いをすることもなく、本当にリラックスして飲む、というか、その空間に「居る」ことができる。
もしかしたら、誰と飲みに行くより、はがさんと飲みに行った時が一番リラックスしているかもしれません。
そんな人、いないんだよね。ま、ワタシの交友関係が狭いからかもしれないけど。

こないだだって、暇つぶしにどんなYouTubeの映像を見るかって話になって、昭和の事件モノが面白いよね、みたいな話で盛り上がったりね。
ワタシはね、本気ではがさんこそ日本が誇るアーティストだと思っている。作品は掛け値なしにすごい。
でも目の前にいる、同じ目線で喋ってくれる人をね「あんなすごい作品が作れる人と飲めて光栄」だなんて思ったことは一度もない。

そんなことよりも、けしてワタシに無理強いせず、常に、どんな時も楽しく、そしてくだらない話で盛り上がれる、はがいちようという人と飲めるのは光栄だな、とは思う。
この人がすごいのは、こういうところですよ。そこは本当に忘れちゃいけないと思う。

はがさん、長い文章読むのが嫌いだからね。たぶんこれも読まないだろうけど、年が明けたらまた誘ってください。それまでにワタシも体調を整えますから。
ということで2016年を締めくくります。来年は何とかブログを復活すべく体調を整えますんで。はがさん、みなさん、よいお年を。

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モダニズム映画鑑賞記5「さくら音頭」

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うーん、これを「モダニズム映画」として扱っていいものやら。わずかにダンスホールのシーンにモダニズムっぽさはありますが、全体としては「プロレタリア・メロドラマ」といった内容なのです。
とにかく今回は、P.C.L.映画第五作目の「さくら音頭」(1934年)の話です。

さて、まずは「さくら音頭」とは何ぞや?というところから話を始めます。
とは書いたものの、「さくら音頭」の実態がまったくわからないのですが、1934年に入ってすぐ、「さくら音頭狂騒曲」とでもいうべき騒動が勃発します。

「さくら音頭」というタイトルの曲が、ビクターを皮切りにレコードが大手四社(他はコロムビア、テイチク、ポリドール)の競作で発売され、さらに今回取り上げたP.C.L.版を含めて五社(他は日活太秦、松竹蒲田、新興キネマ、大都映画)にて映画も競作で作られ、さらにステージでも日劇や東京劇場、他中小の劇場で舞台化されたらしい。

とにかく、こう書くだけでも流行ったっぽいというのはわかっていただけると思うのですが、肝心の、一番根本の部分が一切わからないから困るわけでして。

まず音楽。各レコード会社から発表された「さくら音頭」は、作詞家も作曲家も歌手もすべて違う。つまり同一なのはタイトルだけで、歌詞もメロディもまったく違う「さくら音頭」が4種類もあったということです。
映画にしたところでストーリーはバラバラで、つまり「さくら音頭」という言葉だけが先行し、内実は何の共通点もないのです。

日本の流行史の中でも、こんなにわけのわからない流行はない。しかもさっきからブームだの流行だのと書いてますが、盛り上がっていたのは興行界だけで、一般の間ではそれほど盛り上がった形跡もなければ定着もしていない。

たぶん仕掛け人がいて、「さくら音頭」なるものを流行らせようとしたんだろうけど、もう80年も経っているのによくわからないってのもすごい。
マジで、いったい誰が、いや仕掛け人云々はいいんだけど、この狂騒曲で誰が儲けたんだろ。

ブームの実態がわけがわからないのなら、P.C.L.版「さくら音頭」も、かなりわからない映画です。
映画の始まりは、まるでビクター版「さくら音頭」のプロモーションビデオの如きで、続いて始まる本編は「さくら音頭」という曲と何らリンクしていないのです。

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↑ 映画のタイトルよりも、こっちのが先に出てくる

一応BGMに同曲が流れたり、ダンスホールの名前がチェリーダンスホールだったりしますが、そういうのを全部剥ぎ取っても違和感がないくらい「さくら音頭」と関係ないのです。
だいたい「音頭」ってなくらいだから、曲そのものはご陽気なのに、映画の筋はこれでもかというほど暗くてジメジメしている。

しかしこれこそ、この映画を含めてP.C.L.映画のメイン監督だった木村荘十二の本質なのです。
これまで木村荘十二(「そとじ」と読みます)という人にはあまり触れていませんでしたが、ちょっとスポットを当ててみましょう。

『(木村)荘八は大正昭和に活躍した画家で、随筆家です。「濹東綺譚」の挿絵が最も知られています。この人のお父さん木村荘平は奇人で、火葬場、宿屋、肉屋まで手広く商売していた。(中略)木村荘八は(中略)八男です。(異母)兄弟姉妹に、長男で小説家の荘太、弟の荘十、映画監督の荘十二、姉で小説家の曙がいます。』(山本夏彦著「誰か「戦前」を知らないか」より)

ひとつだけ注釈をつけるなら、荘八、荘十、荘十二、曙(実際はもっと兄弟がいる)は荘平の妾の子、つまり全員異母兄弟でした。
このように、かなり特殊な環境で育った荘十二は映画界に身を投じますが、反骨心旺盛だった荘十二が新興キネマをクビになったのはストライキの元凶だったと睨まれたためです。

P.C.L.に拾われる形になった荘十二は期待に応えメイン監督になるのですが、おそらく自分を殺して軽妙な音楽喜劇を撮り続けました。
しかし以前紹介した「純情の都」のように、ラストに突然悲劇を挿入したり、徐々に「地金」を出してきた荘十二は、ついに本作で本領といえるプロレタリア物(日本では貧困と訳される場合が多い。数年前にプロレタリア文学の第一人者である小林多喜二の「蟹工船」が話題になりましたね)に手を出します。

それにしても、本来、というか、これまでP.C.L.で作ってきた音楽喜劇と本作はあまりにも「色合い」が違いすぎます。
当時の日本で、他社を含めてここまで本式のプロレタリア映画はなく、ましてや明るく楽しいがモットーのP.C.L.映画としてよく作られたな、と思うのですが、やっぱりこれはカラクリがあると思う。

P.C.L.はブームに便乗する形で「さくら音頭」の映画化を目論んだ。しかも出来るだけ早く仕上げたい。各映画会社が競り合う状況なので、多少粗製でもいいから「さくら音頭」と名のつく映画が作れないか。
そこで木村荘十二が出していた企画がせり上がる。内容が内容なのでペンディングになっていたが、この際一から企画を上げる時間もないので、木村荘十二の案の冒頭に無理矢理「さくら音頭」をねじ込んで「さくら音頭」のタイトルで封切る。

以上、まったくの想像です。しかしそうは外れていないと思う。
劇中でのタイトルは「さくら音頭」と出るだけですが、今は他社の同名作品と峻別するためか「涙の母」というサブタイトルがついています。
もしかしたら、木村荘十二が出した企画のタイトルが「涙の母」だったんじゃないか。で、それが今ではサブタイトルになったと。

本作以降、木村荘十二は従来までの軽い音楽喜劇も手がける一方、「からゆきさん」などのプロレタリア映画も作り、やがて一線から離れていきます。
さすがに時代背景関係なく、これ以上「そっちの色(どんな色かはあえて書きませんが)」となると商業映画の範疇から外れてしまう。
戦後は児童映画や反核映画を手がけたと言われますが、ワタシは戦後作品としては「うなぎとり」という中編のセミドキュメンタリーふう児童映画しか知りません。

正直「さくら音頭」はまったく好きなジャンルの映画ではありません。こんな暗くて生真面目な内容を見せられると、こっちまで気が滅入ってしまう。
でもワタシの好みじゃないだけで、作品としてはそこまで悪くない、とも思う。その後の監督にも影響を与えたんじゃないかと思えるようなテクニックも散見されます。

まァ、思想的なことは、もしかしたら一番どうしようもないかもしれないんだけど、でも、木村荘十二が軽妙路線でずっとやってくれたらな、とは思わずにはおれないのです。

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商店街に行こう!

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今回は商店街の話ですが、果たして「作品」や「ロンドン」の話をすることになってる日曜更新分に合致するのか?といえば微妙なんだけど、他に相応しい曜日もないんでね。

商店街の魅力、それは「人の波」です。しかし、いわゆる繁華街の人の波とは違う、子供からお年寄りまで老若男女がひしめき合う感じがあってこその商店街だと思っているわけで。

逆にいえば、寂れた商店街は、もう商店街ですらない。
商店の数はね、実はそんなに重要じゃないんです。とはいえほとんど商店のないストリートに人の波ができるのは異様だけど、だから、ま、最低限の商店は必要としても、いっぱい商店があるから良い商店街とはならないのです。

以前、台場一丁目商店街の久保浩さんとお話しさせていただいた際に「商店街の人がひしめき合う感じを表現したかった」と仰ってましたが、まさにその通りで、どうしても商店街というと「どんな商店があったか」にこだわりがちになるんです。
でも、それは順番としては後の方で、商店街はまず人ありき、なんです。

Gumi-chan1961で商店街を作ろうとなった時も、まず何体の人形が制作可能か、というところから始めました。
もちろんミニチュアなので、あまりに数が多すぎてもゴチャゴチャした印象になってしまうのですが、それでも最低15体はいると。
しかも単なるエキストラにしたくなかったので、人物設定も必要になってくる。逆にいえば、人物設定さえ決まれば、どの商店が必要かは自然と決まるのです。

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実際に商店街を作るにあたって、実地検証をしようと思ったのですが、これがなかなか難しい。
というのも、人がひしめき合うような、活気のある商店街が身近にはなかったのです。
カズミ・アカオが幼少の頃はもちろん、ワタシが幼少の頃までは「商店街は活気があって当たり前」の場所でした。
それがわざわざ探し出すレベルにまでなっているわけで。

昨年「ヨシミツ家の人々」という連作エントリを書きましたが、幼少の頃は祖母(「ヨシミツ家の人々」でいえばオテイ)に連れられて、近所の商店街に行ったものです。
商店街も、併設されていた市場も、とにかく人がいっぱいいて、祖母の手を繋いでないと迷子になるほどでした。

神戸には他にも大きめの商店街はいくつかありましたが、ま、ありましたっていうか、今も一応はあるんです。でも悲しいかな、人もいなければ商店もほとんどない。祖母と行った商店街も見るも無惨なことになってしまっています。

そうなった原因のひとつは、やはりスーパーマーケットでしょう。
しかしホントにそれだけなのか?というと疑問が残る。というのも、神戸といえば、かつてはダイエーというスーパーが幅を利かせていたのです。しかも神戸のダイエー進出は早く昭和30年代で、進出早々から市民に受け入れられてきたのです。

ワタシが祖母と商店街に通っていた頃(1970年代)にはダイエーをはじめとするスーパーは大勢力になっていました。
なのに、商店街は人がひしめき合っていた。たぶんスーパーなんか影も形もなかった頃と変わらない人の数だったはずで、そう考えるとスーパーの影響だけとは言い切れない、と思うのです。
じゃ、何が原因だ、と聞かれても、ワタシにはわかりませんが。

とにかく神戸にはかつての賑わいを維持した商店街はなく(ワタシが知らないだけかもしれませんが)、では大阪はというと天神橋筋商店街はスケールが大きすぎてピンとこないし、あとは黒門市場とか、京都でいえば錦市場の辺り?それも、なんか違う。ああいうところは微妙に観光地化されてて、地元の人のためのものとは違うと思うんです。

一番ピンときたのは千林商店街ですかね。もう大阪のおばちゃんのメッカといえる、あの千林です。今は知らないけど「ちちんぷいぷい」のような番組で派手目のおばちゃんにインタビュー、となると必ずロケ先が千林商店街でしたから。
さすがにかつてのように、人がひしめき合うまではいかないのですが、それでも最初の商店街のジオラマを作る時には雰囲気は参考にさせてもらいました。

しかし、その後関東に来てぶっ飛んだんです。
商店街といえば衰退してるイメージしかない関西に比べて、もちろん関東も衰退してる商店街はいっぱいあるけど、まだまだ活気のある商店街が多いんです。

この辺りの話は世間的なイメージとは違うかもしれないけど、たぶん地元密着というか、そういうのは関東の人の方が大事にしてる気がする。反対に、とくに大阪は意外とドライなんですよ。
大阪は如何にもそういうのが好きそうに見えて、たとえば地元を盛り上げるためのイベントとかあんまりやらないし。とにかく実際の大阪はオフィシャルイメージの大阪とはかけ離れているんだけど、本筋とは関係ないんで終了。

関東に来て、活気のある商店街をいろいろ目にしたせいもあって、ロンドンのエキシビション用の商店街の方が空気感を上手く表現できたと思います。
先に挙げた台場一丁目商店街も、以前書いた新横浜ラーメン博物館も、そういう再現系のテーマパークも充実しているしね。やっぱ、反映されますよ作品にも。

手元に「がんばれ!ニッポンの商店街」というムック本がありますが、作品云々関係なしに商店街は楽しいんです。ムック本を眺めてるだけで楽しいんだから。
しかし楽しい商店街であるためには人が必要なわけで、人を集めるには創意工夫がいる。いわば、今賑わっている商店街はアタマを使っているともいえるんじゃないか。
そう考えれば、今の時代に成立している商店街は、それ自体が作品なんですよ。だからこそ楽しいし、同時に刺激も受けるんじゃないかとね。

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聖地トキワ荘 後編

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前編はココ
大江戸線落合南長崎駅大江戸線なんてトキワ荘に伝説の漫画家たちが住んでた頃にはなかった路線です。だから当然この駅もなかった。
しかしこの際、その辺はどうでもいい。とにかくワタシは新宿から大江戸線に乗って、トキワ荘跡地のそばまで来たわけなのであります。

駅の改札を出た瞬間から、あ、この雰囲気はいい、と思った。何が、と聞かれても困るけど、とにかくワタシの好きな雰囲気で、トキワ荘関係なく一発で気に入りました。
南長崎椎名町周辺は、戦前モダニズムの観点でいえば「郊外」かもしれないけど、今の感覚でいえば紛れもない都心部です。もうひとつの最寄り駅である椎名町から西武池袋線で池袋まで一駅。時間にして3分です。

わざわざこんなことを書きたくなるくらい繁華街に近いのに、実にユルい空気感で、もしかしたら1950年代、60年代と何ひとつ変わってないんじゃないか、とすら思えるほどでした。
トキワ荘跡地までの道すがら、よく見ると戦前から存在したんだろうな、と思われる建物も散見できます。
そりゃ、ワタシが気に入らないわけがないですわな。

跡地、と書いたように、トキワ荘は現存しません。というかワタシが中学生の頃に取り壊された。だから、どうやったって、神戸の中学生が「あの」トキワ荘を自分の目で見るなど不可能だったわけです。そして、当たり前だけど、今もトキワ荘は存在しない。
一応モニュメントはあるそうだけど、ま、所詮はモニュメントだし。

しかし幸いなことに、近年トキワ荘跡地そばに「トキワ荘通りお休み処」という施設ができました。
これは2020年に予定されているトキワ荘復元プロジェクトの一環で、我らがはがいちよう大先生の1/50サイズのトキワ荘も、ここに展示されています。
兎にも角にも、突然豊島区がトキワ荘にかんしてヤル気になってくれたのは非常にありがたいことです。

施設内の写真はアップできないんだけど、今やってる「トキワ荘等に関する基礎調査報告展」では、実寸大で寺田ヒロオの部屋が再現されており、これが非常に楽しい。
もちろんトキワ荘に興味のある方の方がより楽しめるのですが、ない方でも1950年代の独身男性の暮らしが手に取るようにわかります。(ま、漫画家という特殊な職業ですが)

少しだけ「知ってる」方向けの話をするなら、ちゃんとテーブルにはチューダーが置いてあり、テラさんの部屋らしく、すべてが几帳面に整頓されています。
もちろん想像ではなく、当時の写真から詳細を割り出しており、襖の柄から本棚に並ぶ書籍まで、限りなく「テラさんの部屋」を再現しているのです。

館内の方にかなり詳しく説明していただきましたが、ワタシとしてはトキワ荘そのものよりも、1950年代、60年代当時のトキワ荘周辺のことが聞けたのが収穫でした。
まんが道」や映画「トキワ荘の青春」では、わりとひっそりした住宅街のようなイメージでしたが、実際は表通りの商店街はかなり活気があったようで、今よりもはるかに多くの商店があったそうです。
そう、まるでGumi-chan1961の商店街のように。

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↑ 中の写真がダメなので外観だけ

商店街にあった商店のほとんどは閉店してしまっています。
半年ほど前まで現存していたという、トキワ荘の向かいにあった落合電話電信局も取り壊されていました。
トキワ荘跡地は日本加除出版(公的な書類を出版する会社らしい。当時から存在)の社屋になってますが、モニュメントは一応ありました。

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これだけでは寂しいので、モニュメントのすぐそばにあった井戸ポンプとネコの写真も。

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さて、もうひとつ商店街に現存する商店があります。
まんが道」ではお馴染みもお馴染み、中華料理の松葉です。
頼んだのは、もちろんラーメン。松葉といえばラーメンですから。昔からの店なので今風のゴッチャリしたラーメンとは正反対の、正統派の東京ラーメンです。

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↑ 箸入れが良い感じ

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↑ ンマーイ!(「まんが道」を読んで以来、ずっと言ってみたかったセリフ。やっと言えた!)

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↑ ちなみにこれが本家本元の「ンマーイ!」

これで終わり、ですが、最後にひとつ。
トキワ荘通りお休み処」には今時珍しいサイン帳があり、鈴木伸一先生を始めとした著名人も描かれています。
せっかくなので、ワタシも描いてみました。

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文字にした通り、ぜんぜん描けない!マジ下手くそ!
うーん、昔はこれの10倍は上手く描けたんだけどなぁ。というか「怪物くん」はマジで自信あったのに。
せめて目を互い違いにしてれば、とも思うけど、いやいや、それ以前の問題だよなぁ。

締めはやっぱりこの歌で。

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ダンスありき

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日本で最初のジャズソングのレコードは、二村定一が歌った「アラビアの唄/あほぞら(「私の青空」)」だったと言われています。
しかしジャズソングに限らなければ、レコードの登場は意外と早く、日本では明治時代にはすでに発売されていたのです。

正直、家庭でレコードプレイヤー(当時の言い方なら蓄音機)がどの程度普及していたのかは定かではないのですが、昭和期に入るとラジオとの相乗効果もあったのか、ヒットレコードも登場しはじめます。
しかし当時のレコードに吹き込まれたのは音楽だけではなかった。現今よりももっと雑多で、浪曲、都々逸、浪花節はもちろん、落語、漫才といった「音だけで価値があるもの」がどんどん吹き込まれていきました。

といっても、当時はSP盤と呼ばれるレコードでした。
録音時間も標準で3分と極めて短く、当然落語なんかは全部入るわけがない。両面合わせても、たかだか6分。
だからこの当時活躍した噺家で残っている音源はすべて「ダイジェスト落語」とも言うべきものになってしまっています。

しかもこのSP盤、非常に割れやすい。軽く落としただけでもパリンと割れてしまう。傷もつきやすく、これがSP盤特有のバチバチしたノイズの原因です。
もっとも当時は録音そのものが悪く、原盤が残っている場合でも悪音質のものが多いのですが。

さらにいえばレコード専門店などほとんどなく、東京でさえ数件しかなかったといいます。
ではどこで人々がレコードを買い求めていたのかというと、何と夜店の類いだという。大手のコロムビアやテイチク、ビクターなどはまだ取り扱ってる店はあったようですが、この頃あまたあったマイナーレーベルは、どう見ても正規でなさそうな店で買い求めるしかなかったのです。

そんな状況でも、レコードを聴くことを趣味とする人はいました。
もちろん蓄音機の値段が高かったので、やはりそれなりの家庭に限られた趣味でしょうが。まァ、戦前ならば高貴な趣味ということになったんでしょうか。仮に聴いてるのが落語や歌謡曲であってもね。

では戦前戦中までの人々が、あまり音楽に触れる機会がなかったのかというと、もちろんそんなことはありません。
まずは映画。とくにサイレント映画期はBGMを生バンドが演奏する劇場も多くありました。

さらにはステージ。今では演劇であれコンサートであれライブであれ、映画よりもずっと入場料の高いもの、といった認識ですが、当時はそんなことはなく、むしろ映画より気安い娯楽だったのです。
浅草などの下町の興行街はとくに安く、たいしてお給金をもらってない小僧でも気軽に観に行ける場所だったんですね。

そしてもうひとつ、忘れてはならないのがダンスホールです。
もう旧来のダンスホールは存在せず、意味が変わっちゃってダンスホール=レゲエ、みたいになってますが、ディスコでもクラブでもサパークラブでもない、踊るための施設がいくつもあったわけです。

踊るためには音楽が必要で、各ダンスホールにはお抱えの楽士、ま、バンドマンがいました。当然有名な、たとえばフロリダという一流のダンスホールなら一流の楽士が揃っている、という具合です。

演奏されるのは、昭和期に入ってからは何といってもジャズですが、途中からタンゴも主流になってきた。
タンゴなんて今ではかなり古臭いイメージですが、当時はジャズよりさらにモダンで、しかもシック、というのがウケていたのです。

ジャズ評論家の瀬川昌久氏にうかがったところ、一曲あたりの演奏時間は2、3分、とSP盤に収まるレベルの長さだったらしい。
これはダンスのパートナーにチケットを渡して、というシステム上の問題で、当然曲単位で相手が変わるということは店も潤うわけでね。

と書けばおわかりになると思いますが、当時のダンスはあくまで男女がペアになって踊るものでした。
ダンスだから当然身体を密着させるわけで、バンド演奏の素晴らしさ、ダンス自体の楽しさはあったとはいえ、性風俗の要素も皆無だったとはいえない。

もっと以前はダンスホールも男女同伴が基本だったといいますが、途中から女性の入場ができなくなった。
これはとある事件がきっかけですが、まァ話が長くなるので割愛。しかしこのことをきっかけに、上流階級の社交場といったニュアンスは消え、ダンスホールは大衆的な風俗になったのです。

つまり、今よりもさらに、音楽もダンスも煽情的なものだったのです。ま、もう少しソフトにいえば享楽的か。あんまりソフトになってないか。
性的なものと引っ付いているんだから、そういうイメージをもたれるのは、もうしょうがない。だからこそ警察はダンスホールを目の敵にしたし、1940年には風紀の乱れを理由にダンスホールが一斉閉鎖されることになるのです。

それでも純粋に、音楽を、そしてダンスを楽しんでいる人もいっぱいいた。
何より、この頃のジャズとはあくまで踊るための音楽だったのです。今様にいえばダンスミュージックで、ジャズを聴く=踊る、ということに他ならなかった。
仮に聴いてる客は踊らなくても、ステージでダンサーやコメディアンが踊るのが常であったわけで。

ジャズを聴いて、客もダンサーも誰も踊らない、というふうになったのは、理由はこれまた長くなるので割愛しますが、戦中からだったといいます。
しかし本格的に「踊らずにしかめっ面でジャズを聴く」ようになったのは、戦後のモダンジャズの登場以降でしょう。

どうもジャズというと今ではモダンジャズの印象が支配的で、目をつむってジッと聴く、みたいなイメージになっていますが、本来踊るための音楽なわけで、ワタシはどうも、モダンジャズがあんまり好きじゃない。
というか、ジャズに限らずなんだけど、ダンスミュージックが好きなんです。自分が踊るわけじゃないんだけど。

ここでもジャズがどーたらとか書いてますが、もしかしたら勘違いされてるかも、と思って本エントリを書いてみたのですが、はっきりいいます。ワタシは辛気臭い音楽は嫌いです。
仮に踊らなくても、踊りたくなる、そんな音楽にしか興味が湧かないんですよねぇ。

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サンキュー・ティム

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もし、この世にこの人が存在しなければ今の自分はない(無論ポジティブな方面で)、という人は、誰しもひとりは必ずいると思います。
そんなに頻繁に会うわけではない、だけれども、人生において欠かせない人・・・、もしかしたらワタシたちにとってそれがティムなのではないかと思っているのです。
え?ティムって?それはおいおい。

思えば、グミちゃんのロンドンへの売り込みは相当無茶苦茶でした。
何のアテもなく、いや、それどころか、ロンドン行きを決めた時点では、グミちゃんを売り込むつもりですらなかったのです。
2012年の初め、カズミ・アカオはロンドンへと旅立ちます。
これから海外で活動するぞ、というようなポジティブなものではなく、悲壮感を全身に漂わせたロンドン行きでした。

何度か書きましたが、グミちゃんは日本ではまるで認められず、人形作家としてのカズミ・アカオは完全に行き詰まっていました。
もう、無理かも、しれない。でもこれで終わることはできない。大仰かもしれないけど、このまま終わったんじゃ死んでも死に切れない。
それでは最後に、アートの都であるロンドンで売り込んでみよう。それで、もしダメなら、スッパリ諦める・・・。

実はこの頃、カズミ・アカオは一切人形を作っていませんでした。どうしても人形が認められないというジレンマから絵を描いていたのです。
上手いか下手かはともかく、全身全霊をかけて描いていたことは事実です。でも、やっぱり人形同様認められなかった。
ちなみにその頃にカズミ・アカオが描いていた絵を貼っておきます。

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はがいちようさんには、いまだに「あのアカオちゃんの絵、好きなんだけどなぁ」と言っていただけるのですが、それでも認められなかった事実は変えようがない。
でも、もしかしたら、はがさんのように認めてくれる人がロンドンにいるかも、ただそれだけを信じてロンドンはヒースロー空港に降り立ったのです。

ロンドンに着いたものの、アテがないんだから何をどうすればいいのかわからない。
ただ、たったひとり、アポイントメントをとった人がいました。
その人の名前は伏せますが、在英の日本人アーティストの方で、とにかくこの人にだけでも認めてもらう、と勇んでその方のアトリエまで出向いたのです。

しかし、その方の放った言葉は、カズミ・アカオにとっては残酷なものでした。
「申し訳ないけど、無理だと思います」
・・・そうか、だいたい日本で無理なものがロンドンで認められるわけがない・・・。
しかし続いて発せられた言葉は意外なものでした。
「絵は無理だけど、何で人形を売り込まないんですか?グミちゃん、とっても可愛いのに。あれならイケますよ」

もう一度繰り返します。カズミ・アカオはあくまで「絵」の売り込みにロンドンに来たのです。しかし、その方が認めてくれたのは、とっくに諦めたはずのグミちゃんだった。
グミちゃんを売り込むつもりは皆無でしたが、それでも「旅のお供」としてグミちゃんを持っていってた。
そうか、グミちゃん、か・・・。
よし、ここまで来たんだから、グミちゃんを売り込んでみよう!

ここからはややこしい問題があるので詳細は割愛しますが、とにかくロンドンでビジネスをされているイギリス人女性(仮にCとします)と会えることになった。
Cさんは日本に留学経験があり、日本語がペラペラ。しかもイギリスでバリバリビジネスをされている、という非常に心強い人でした。ちなみに今でも世話になっています。

そのCさんに実際お会いすることになったのですが、もうひとり男性を連れてきた。
彼女いわく
「私はビジネスはわかるけど、アートはわからないので友人に来てもらった」
後ろから、いかにもシャイな感じの、長身の青年が現れた。
この青年こそティムで、ロンドン在住のイギリス人アーティストでした。

ティムはひと目グミちゃんを見るなり、これは素晴らしい!ぜひ売り込むべきだ!と絶賛してくれたのです。
こう書くとお世辞っぽいのですが、実はアートの審美眼にかんしてはシビアなことを後で知ることになります。
だから、この言葉は本心だったのです。

おそらくCさんは、ティムがお世辞をいうような人ではない人柄なのをよく知っていたのでしょう。
そのティムが絶賛するグミちゃん、これはもしかしたら、もしかする・・・。
「そういえば私の友人にポール・スミスで働いている人がいる」
Cさんのひと言で、初めてポール・スミスに繋がることになるのです。

その後のことは、まァ、いずれ書きますが、今回の主役であるティムの話を続けます。
ポール・スミスでのエキシビションが決まった後も、ティムはいつもグミちゃんのことを、そしてカズミ・アカオのことを気にかけてくれていました。
しかしワタシはなかなかティムに会う機会に恵まれせんでした。

ここまで、まるで見てきたように書いてるけど、すべてワタシはその場にはおらず、カズミ・アカオから聞いた話を文面にしただけです。
やっと同年冬のロンドン滞在中、ティム主催の誕生日パーティーに呼んでもらい、初めて会うことができました。
ま、仮装パーティーだったので、シャイかどうかどころか、素顔すらよくわからなかったのですが。

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↑ 初対面で相手が女装(もちろんティムにそういう「気」があるわけじゃない)ってのは、如何なもんでしょ。ま、パーティーだから。

今年の5月、ティムが日本に遊びにきました。
空港までクルマで迎えに行き、ホテルまで送っていったのですが、たぶん齢40ン年の中で一番緊張する運転になってしまいました。
ティム、そしてティムの彼女は初めての日本です。絶対に日本にたいして良い印象を持って欲しい、だからクルマでの移動中に少しでも怖い目にあわせるわけにはいかない・・・。
んなことを考えすぎたせいで、ガチガチになってしまったのです。

この日の夜は食事に行っただけでしたが、翌々日には、日本が誇る酔っ払いこと、巨匠はがいちようさんのアトリエまで行き、ふたりを引き合わせることができました。と、これまた見てたように書いてるけど、この日ワタシは不参加。そんなんばっか。

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↑ 若きイギリス人アーティストと日本の巨匠。ジャンルは違えど、そこはアーティスト同士。すぐに打ち解けたそうです。

彼は今、アートセラピーに取り組んでいます。アートにより人々の心を癒し、それがまたアートになる、という壮大なプロジェクトです。

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ティムならできる、と思えるのは、それは誰よりも神経が細やかで優しく、同時にアートにシビアな審美眼を持っているから。両方備えたティムなら、きっと成し遂げるはずです。

ワタシたちも、ずっとティムに見守られているような気がしている。イギリス人で最初にグミちゃんを認めてくれ、今もずっと応援してくれている。
でも、もし、グミちゃんがおかしな方向に行きそうになったら、ティムなら気づいてくれると思う。
だから、今までも「サンキュー」だけど、これからも「サンキュー」なのです。

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聖地トキワ荘 前編

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Gumi-chan1961の舞台である1961年は、昭和後期を支えていく人たちが巣立った年でもありました。
具体的にいえば、石ノ森章太郎赤塚不二夫、両藤子不二雄といった各漫画家の先生が、彼らが青春期を過ごしたトキワ荘から退居したのが、この1961年なのです。

甚だ簡単ではありますが、トキワ荘とはなんぞや、というのを説明しておきます。
今では「漫画家の梁山泊」みたいに言われますが、漫画家として最初の入居者である、宝塚から上京することになった手塚治虫が、トキワ荘に移住したのは偶然でした。
別に手塚治虫が不動産屋に飛び込んで見つけたわけではなく出版社の紹介でしたが、これ以上続けるとマニアックになりすぎるので割愛します。

しかし、のちに「漫画の神様」と言われる手塚治虫が住んだことは、新築でありながら安普請だった小さなアパートが、漫画家を目指す地方出身の若者たちの憧れの場所になる第一歩になります。

ここに、同じく出版社の紹介で入居した寺田ヒロオ、さらに手塚治虫が退居することになって同じ部屋にそのまま入ったのが両藤子不二雄でした。
この後も石ノ森章太郎赤塚不二夫つのだじろう鈴木伸一といった将来名を成す若手漫画家が続々入居することになったのです。

何故トキワ荘に若手有望漫画家が集結したのかは諸説がありますが、今では「漫画家をひとつに集めておけば、いざという時に対応しやすい」という出版社の思惑、という説が有力です。
もちろん「仲間がいっぱいいて、楽しいし、切磋琢磨もできる」という漫画家自身の希望もあったのでしょうが。

さて、ミニチュア・ジオラマ界隈でトキワ荘といえば、手塚治虫寺田ヒロオと並んで、この人の名前が出てくるのではないでしょうか。
そう、巨匠・はがいちよう大先生です。(←あんまり言い過ぎると怒られるけど)
ま、怒られようがなんであろうが、はがさんの作った、ミニチュアサイズのトキワ荘が感動的なまでに凄い、という評価は変えようがないわけでして。

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↑ マジで凄くないですか!? 精巧云々以前に、空気感の再現にここまで注力する、というかできる作家なんて、はがいちようさんくらいです。
ま、ご本人の見た感じはただの酔っ払いですが。

空気感を再現する、とひと口に言いますが、これはディテールの再現とはワケが違うのです。
ディテールの再現だけなら、山のような資料、ま、写真ですね、を用意すれば可能かもしれません。
しかし空気感はそうはいかない。調査だけではなく取材が不可欠なんです。

はがさんは水野英子先生(短期間ですが、彼女もトキワ荘の元在住者です)や関係者から丹念に取材をして、あの空気感を蘇らせているのです。主観からでしか感覚を得るのは難しい、という話なのですが、そういうことをちゃんとやっているからこそ、はがさんの作品は素晴らしいんですね。
何度も書くけど、本人は酔っ払いだけど。

さて、ワタシは藤子不二雄A・著「まんが道」の大ファンです。もう大ファンというのもおこがましいというか、人生のバイブルだとさえ思っているほどです。
まんが道」は若き日の自分たちをモデルに、つまり両藤子不二雄を主人公に、寺田ヒロオをはじめとした実在の人物が出てくる、一種のビルドゥングスロマン漫画です。

初めて「まんが道」を読んだのは、たしか小学校6年の時で(まだ「週刊少年キング」に連載中だった)、以降ワタシにとってトキワ荘はずっと聖地だったんです。
いつか、トキワ荘に行ってみたい!
そして松葉のラーメンを食べてみたい!

そもそもの話ですが、はがいちようさんのトキワ荘を初めて見た時
なんだこれは!
まんが道」の、あのトキワ荘の空気がそのまま再現されてるじゃないか!
いったい誰がこんな凄いものを作ってんだ!
みたいな感じで「思わず」メールしてみたのが、はがさんとの出会いでしたからね。

つまり、もしワタシが「まんが道」なんて作品を読んでなければ、おそらくはがさん作のトキワ荘にもそこまで興味を抱かなかったはずで、今こうやって酔っ払・・・もとい、はが大先生と懇意にさせていただいているのも「まんが道」の、ひいては藤子不二雄A先生のおかげ、といえます。

しかし、まてよ。たしかにはがさんと出会えたことは素晴らしいことだけど、何か忘れてないか?

・・・あ!!!まだ一度もトキワ荘に行ってないじゃないか!!

関東に延べ15年くらい住んでるのに、その気にさえなればいつでも行けたのに、あれだけ焦がれた聖地に行ってないとは何たる不覚!
行かなきゃ。今すぐ!

続きます。

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