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~これでも仕事用です~

エノケン映画鑑賞記2「エノケンの魔術師」

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今日は「エノケンの魔術師」のことを。

エノケン著の「喜劇こそわが命」によると、前作「青春醉虎傳」のクランクアップ直後に、所属していた松竹から「吹けよ春風」という映画に単独で主演しないか、という話が来て断った、とあります。
ただしこの本は非常に記憶違いの多い本なので、本当に「青春醉虎傳」の直後なのかなど、タイトルを含めてイマイチ信憑性に欠けるのですが、とにかく主演第二作は前作に続きP.C.L.で撮られることになります。それが「エノケンの魔術師」です。

エノケンの音楽的素養を使いこなせたのは山本嘉次郎だけだったといわれていますが、これは木村荘十二が監督をつとめています。
そもそもエノケンの主演第1作も最初は木村荘十二が監督の予定だったようで(この時点で第1作が「青春醉虎傳」に決まっていたかは不明)、木村荘十二といえばP.C.L.第一回作品「音楽喜劇 ほろよひ人生」で監督をつとめており、この時点でのP.C.L.のエース監督は、日活から移籍したばかりの山本嘉次郎ではなく木村荘十二だったのです。
音楽喜劇がつくれる「エース」木村荘十二が、ドル箱と期待されていたエノケン映画の監督、というのはまことにもっともな話です。
とはいえこの「魔術師」は評価がない。というか評価があるのは山本嘉次郎が撮った「ちゃっきり金太」や「孫悟空」、あとは中川信夫監督の「頑張り戰術」くらいで、この後二度とエノケン映画に関わらなかった木村荘十二監督作品となれば、最初から期待値はかなり低かったわけで。
だけれども、これは一本の映画としてみた場合、非常にまとまりのある力作でした。

巻頭の、ラジオ実況風というかニュース映画風というか、ナレーションからして説明と高揚感の両立に成功しており、主役であるエノケンがあまりにもダラけきった感じで登場するというコントラストが可笑しい。
この後は世界的マジシャンであるエノケンが出演予定の劇場主(善玉)と、ギャングまで使って何とか引き抜こうとするライバル劇場主(悪玉)とのせめぎ合いなんですが、ライバル劇場主役で小悪党ぶりを発揮するのがエノケンの師匠である柳田貞一で、いい味を出しています。
ストーリー自体は至極単純だけど、当時としては素晴らしいスピード感のカーチェイスシーン(まだスクリーンプロセスが使えずオールロケでやってる)や、トリックを多用した追っかけ(ま、フィルムをカットで繋いでるだけだけど)、エノケンとブタとアヒルがアニメーションになって歌い踊るフィナーレまで(これがまた当時の日本のアニメーションのレベルの低さをはかる上で貴重)を含めて、随所に凝っているのが、またいい。

レビューシーンはラストだけなんでレビュー映画としては物足りないけど、エノケン一座のリハーサルを思わせるやり取りや大劇場(を模した、おそらくセット)で撮影しているため、当時のレビューの舞台の雰囲気がよくわかります。
個人的には魔術を起こすための帽子(インチキ忍者物でいうところの巻物)が見つかって、エノケンか浮かれて「月光価千金」を歌い出すシーンで、途中からショウの出演者たちによるコーラスが入るところは、何回見ても震えがきます。
こういう呼吸こそ、レビュー役者エノケンの本領だと思うんですがね。

この映画の成功のポイントを挙げるなら、とにかく徹底的に生活感を排除したところにあると思います。
出てくるのは興行関係者とギャングのみ。つまりカタギの人は(汽車の乗客や観客などの「その他大勢」以外)ひとりも出てきません。純粋なバックステージ物ではないのですが、エノケンが手品の枠を逸脱した奇術を見せてもさほど違和感がないのは、特殊な世界の特殊な人々の中にいるからです。
映画自体が漫画みたい、といえばそれまでなんだけど、下手に生活感=リアリティーを出すより、この映画のようにある種のファンタジィに徹した方がいいっていう見本です。

エノケンの本領は、生臭いリアリティー劇ではなく、何でもありのファンタジィ劇でこそ活かせる、と思う。これはいずれ書きますが「孫悟空」や「猿飛佐助」が上手くいってる、というか無理がないのは、エノケンというのが「そういう資質」だからなんじゃないかと。
これ、意外と珍しい個性で、のちの植木等ビートたけしとかとは真逆といっていい。
ワタシは、芸能における戦前モダニズム=夢のあるファンタジィ、と思っているので、まさにエノケンこそが戦前モダニズムの象徴である、と思ってしまうのですがね。

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