~これでも仕事用です~

ヨシミツ家の人々2

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前回更新分を含めて「ヨシミツ家の人々」はタイトル下にある「ヨシミツ家のこと」からすべて読むことができます。

ヤスシが2歳になった1941年、ヨシミツ家に第二子が誕生します。名前はヒデジ。長男のヤスシもヒデジも、名前で判る通り男の子です。

ヨシミツ家に、というか神戸に本格的な戦争の影が入り込んできたのは1944年だったといいます。
ただし1944年の時点ではまだ街並みは戦前のまま。そしてこの年、第三子が誕生するのですが、これが女の子でした。
名前はヨシエ。ワタシの母になる人です。
つまり戦争の影を感じながら祖母は母を産んだことになります。

ここまで祖母のことを書いていませんでした。
ワタシの祖母でありセンゾウの妻であるオテイは奈良県香芝の生まれ。長女として家事を切り盛りしながらも封建的な両親との関係はけして良好とはいえず、15歳にして神戸の米問屋に奉公に出されるなど、かなり辛酸を舐めた、といいます。
戦時体制の中で3人の子供を産み、戦後の波乱の中をたくましく子育てしたバイタリティーある人なのですが、ワタシの記憶するオテイ、ま、ワタシにとってはおばあちゃんですが、はそういうタイプには見えませんでした。

孫は自分の子供よりも可愛く見えるようで、ワタシもずいぶん可愛がってもらいました。
でもヨシエやヤスシやヒデジ、何かこう書くと変ですが、つまりワタシの母と叔父ですね、の話を総合すると、別に孫だから特別可愛がっていたわけではないらしい。
ウラオモテがあるってことじゃなくね、要するに誰にでも優しい人だったと。

ずっと後年ですが、誰にでも優しい祖母の姿をワタシもはっきり記憶しています。
近隣の人をはじめ、今でいうところのホームレスにまで祖母は優しかった。母の話によると、あんまり祖母が優しいのでホームレスが家に尋ねてきて困った、なんてこともあったそうです。
オテイが家庭を支える一方、センゾウ(=祖父)は寡黙な仕事人間で、毎日夜遅くまで仕事に励んでいた。
ま、仕事に精を出す父と誰にでも優しい母、という、まるで松竹大船家庭劇のような家庭で母も叔父も育ったということになりますか。

センゾウは仕事が第一優先だったことは間違いありませんが、大変な新し物好きでもありました。
昭和初年期には漫画を読んでいたそうですし、映画好きで完全な洋画党でした。
前回書いた通りセンゾウは鍛冶屋を営んでいたのですが、見た目は上記の写真を見てもらえればわかりますが、ガイコクジン顔、それもロシア人ぽい顔立ちで、しかも長身。
中身もモダンそのもので、戦前モダニズムの色が濃かった神戸に完全に溶け込んでいた、といってもいい。

しかしセンゾウは元々神戸出身ではない。
ここでさらにルーツを探っていきます。
ワタシが把握している限り、ヨシミツ家のルーツは山口県の萩で、細かい身分まではわかりませんが、とにかく武士だったそうです。
明治に入って大阪に出てきたそうですが、曾祖父が何をやっていたかはかなり曖昧です。
武士の出だけに品は良かったらしいですが、新しい時代に付いていけず、どうもヒモに近い状態だったらしい。

大阪で生まれたセンゾウは、両親ととも大正期に神戸に流れ着き、最初はガラス屋を営んでいたそうですが、母や叔父に聞いても何故神戸に来たのかは定かではありません。
が、神戸に居住し始めたこと、それはセンゾウにとってあまりにも大きな出来事だったに違いなく、前回書いたように「モダニズム文化の最先端」の街だった神戸で多感な時期を過ごしたことによって「モダンで新し物好き」という感覚を手に入れたわけです。
余談ですが、センゾウの持つ「モダンで新し物好き」という血はワタシも受け継いでいます。

しかしそうした感覚の人間にはだんだん辛い時代に入っていきます。
1945年になって、ついに空襲がはじまったからです。
でもワタシはヨシミツ家の人間から戦争の話をほとんど聞いたことがありません。
ヨシエは1歳になるかならないかだから憶えているわけがないし、4歳のヒデジにしたところで防空頭巾を被らされたことくらいしか覚えていません。

当時6歳だったヤスシはかなり記憶があったらしい。だけれども戦争の話を語りたがりませんでした。理由はいずれ書きますが、とうとう亡くなるまで話をしてくれませんでした。
センゾウは寡黙な人だったので聞いたことがないのは当然として、意外にもワタシにもっとも戦争の話をしてくれたのは祖母のオテイでした。

オテイが逝去したのはワタシが高校一年の時ですが、まだ子供だったワタシに戦争の話を何度かしてくれたことを憶えています。
が、オテイの語る戦争は子供のワタシでさえ驚くような内容だったのです。

「こっちにはなぁ、爆弾は落としてこぉへんってわかってたからな、空襲があったら、みんな見に行ったんやわ。そしたら高架の向こう(前回書いた通りセンゾウの家は三宮駅の北側だったので、「高架の向こう」とは南側、つまり繁華街の方を指す)で、もうメチャクチャ燃えてるんやわ。だんだん空も赤くなってきて、そら綺麗やった。その後いろんな花火大会も見に行ったけど、あんな綺麗な空は空襲の時しか見たことがない」

こういう文脈で空襲を描いた文章をほとんど読んだことがない。
神戸の空襲といえば「火垂るの墓」とか「少年H」とかで語られてるけど、いずれも悲惨さを全面に出した内容です。
しかもオテイはこの時すでに3人の子供の母親だったわけで、無邪気な子供の意見じゃない。
さらにいえば、空襲を見に行ったのはオテイだけではなく近隣の人も、だったらしい。

戦火に逃げまどうわけでもなく、防空壕に押し込められた話でもなく、「綺麗だから」という理由で空襲を見に行く神戸の一市民。
もちろん感覚が麻痺していた、というのはあるでしょう。しかしそこには、やはりある種の諦観を感じずにはおれない。死ぬかもしれんけど、悲惨な気持ちやなく、呑気に、ああ綺麗やなぁと思いながら死にたい、という。

今になればオテイ、つまりおばあちゃんの言いたかったことはなんとなくわかる。あれは戦争の話ではなく人生観だったんだな、と。

続きます。
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