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~これでも仕事用です~

ヨシミツ家の人々3

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前回までにひと通り登場人物が出てきたので、簡単に復唱したいと思います。
()内はワタシから見た関係です。

・センゾウ(祖父)=1907年生まれ。1945年時点で38歳。三宮駅の北側で鍛冶屋を営む。寡黙でモダンで新し物好き。
・オテイ(祖母)=1916年生まれ。1945年時点で29歳。誰にでも優しい、しかし独特の強さと諦観を持つ女性。
・ヤスシ(叔父)=1939年生まれ。1945年時点で6歳。センゾウとオテイ夫妻の長男。
・ヒデジ(叔父)=1941年生まれ。1945年時点で4歳。次男。
・ヨシエ(母)=1944年生まれ。1945年時点で1歳。長女。

初回に書いた通り、名前はすべて仮名にしてありますが、実名をご存知の方なら一発でピンとくるものにしてあります。
もしこの文章を読んでくださった、当時のヨシミツ家をご存知の方がおられましたら、ぜひご連絡ください。
「Gumi-chan1961」のホームページのメールフォーム、もしくはFacebook(@shinyoshimitsu)からご連絡いただければ幸いです。

さてセンゾウとオテイの考えの通り、三宮駅の北側にはほぼ焼夷弾は落ちてきませんでした。丸焼けになったのは南側のみで、北側に住むヨシミツ家は鍛冶屋の商売道具が少し焼けたくらいで、家族全員かすり傷ひとつなかった。
でももし大量の爆弾が降ってきていたら?
子供の頃のワタシはそのような質問を祖母、つまりオテイにしたことがあります。

「その時は高架下に行けばええと思ってた。戦争が終わったら、たぶん向こう(連合国側)はすぐ電車を使いたいやろから、絶対に線路は破壊せぇへんと思てた」

当時は「そんなもんか」としか思わなかったけど、今改めて祖母の言葉を振り返ると、いやはや、見事なリアリストぶりです。
実際アメリカ軍がそこまで計算していたかは知らないんだけど、あれだけ派手に三宮駅の南側を破壊しておきながら高架は無事だったのですから、オテイの考えは見事に当たったってことになります。

終戦の日、次男のヒデジはオテイに手をひかれて三宮の街を歩き回ったことを記憶しています。
さすがに「(省線の)三ノ宮駅玉音放送を聞いた」という話は記憶違いの可能性が高いんだけど、オテイがヒデジやヤスシを連れて三宮の街をウロウロしていたのは本当らしい。
これはヤスシからも聞いたから間違いないと思うけど、オテイは意図的に息子たちに悲惨な状況を見せてまわったといいます。
この考えを持っていたのはセンゾウということですが、実際に連れて回ったのはオテイで、そこにもリアリストぶりを感じる。言葉ではなく行動で「な、戦争に負けたらこうなるんやで」という意図を示した、というか。

戦後のヨシミツ家を語る前に、戦後すぐの神戸の、というか三宮の様子を書いておきます。

皆さんも「ヤミ市」と言う言葉は聞いたことがあると思います。ま、ワタシも年齢からして当然足を踏み入れたことはないのですが。
戦後すぐ、日本の都市部に自然発生したヤミ市の雰囲気を知りたければ、戦前モダニズムの雄であったエノケンとロッパのダブル主演映画「新馬鹿時代」を観ていただくと早い。もちろんかなりデフォルメされていますが、かなり当時の空気感みたいなものはわかります。
ま、ある種のリアリティーがありすぎて、喜劇というよりは社会風刺映画になっちゃってますが。

新馬鹿時代」はDVDになってないし観るのが困難ですが、セットを流用して作られた黒澤明の名作「酔いどれ天使」や、同じく黒澤明の「野良犬」にもヤミ市が出てくるので、単純な映画としての面白さを加味するなら、両黒澤明作品の方がオススメです。

要するにヤミ市とは「無許可不法占拠の青空マーケット」です。
何故ヤミ市が必要だったか、またどういう人たちがヤミ市の「売る側」だったかは、ややこしい問題があるので書きませんが、気になる方は検索してみてください。

ヤミ市は三宮にもありました。
今の交通センタービル付近からJRの線路沿いにかけてで、元町を通過して神戸駅の近くまであったといいます。(上の画像は神戸のヤミ市の様子です)
先ほど「省線の高架は残った」と書きましたが、高架下ってのはモノを並べて売るには実に都合が良く、雨が降ろうが極寒であろうが関係ない。

しかも1936年に省線というか鉄道省は「神戸発展のため」に、神戸市に高架下を無償貸与している。「国」ではなく「市」が管轄していたため、より不法占拠がしやすい状況があったとみていい。(高架下の無償貸与がいつまで続いていたのかは不明)
だからまず高架下を中心にヤミ市が広がり、あぶれた新規参入組が高架下沿いに青空マーケットを展開していきました。

ここまで書けば神戸の人ならお判りでしょう。そう、元町から神戸駅近くまで延びる、狭くて古い商店の数々、通称・高架下はヤミ市が変化したものなのです。
青空マーケットがあった箇所は道路が拡幅され、センタープラザや、つい最近ですがマルイなんかもできて一切面影はありませんが、高架下は二十一世紀になった今でも、ほのかにヤミ市の香りが残っています。

戦争中の話をしたがらなかった叔父のヤスシもヤミ市のことは話してくれましたし、YouTubeで検索すれば三宮のヤミ市の様子(しかもカラー映像で!)を見ることが出来る。
瓦礫の山と化した三宮の街は、自力で復興しようとし始めていたのです。
ではヨシミツ家は、ですが、商売道具が焼かれるという多少の損害はあったものの家屋が無事だったこともあり、そこまで生活に変化はなかったといいます。
推測ですが、もちろん物資は致命的に足りていない時代ですからヤミ市にも足を運んだことでしょう。

その頃センゾウはある決断をします。時期ははっきりしないのですが、1945年の末から1946年の初頭と思われるある日、センゾウとオテイは旅支度を始めました。

この続きはまた次回。
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