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~これでも仕事用です~

ヨシミツ家の人々4

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今では少し変に思えますが、戦前の時点では、いや戦後もいつぐらいかまでは、まず土地を買って、そこに家屋を建てる、という発想は少なかったらしい。(発想の問題だけではなく法律の問題が大きいんだけど、ややこしいんで割愛)
ヨシミツ家も住居兼工場は持ち家でしたが、土地は借り物でした。
これはヨシミツ家に限ったことではなく、「Gumi-chan1961」のもうひとりの作者であるアカオカズミの実家も長年土地は借地だったといいます。

しかし戦争が終わって世の中が変わりつつありました。ヨシミツ家の土地の地主は東京の人だったらしいのですが、センゾウに「土地を買わないか」と打診してきたらしい。地主の意図は不明ですが、とにもかくにもセンゾウは自宅の土地を購入する決断をします。
いくら今とは比べ物にならないくらい土地の値段が安かったとはいえ、それなりのまとまったお金はいる。しかし軍事需要も一息ついたヨシミツ家にはまとまったお金がありませんでした。
そこで奈良に住むオテイの実家に借金の打診をします。

ワタシにとってひいおじいちゃんにあたるオテイの父親は、ワタシが本当に小さい頃、たぶん赤ちゃんの頃に会った程度なので、どういう人だったのか実感としては全然知らないのですが、とにかくケチで有名だったらしい。にもかかわらずセンゾウ、そしてオテイからの借金の申し出を受けてくれた。
これで土地共々、晴れて三宮駅北口からすぐの場所にあるヨシミツ宅はすべてセンゾウのものになる、予定でした。

奈良に借金に行く日の朝、とんでもないことに気づきます。
用意していたはずの、奈良までの旅費がすっかりなくなっている。どころか完全に荒らされた形跡がある。
そうです。泥棒に入られたのです。
借金に行く前日の夜に泥棒に入られる、こんなタイミングが悪い話は早々ない。
こうなったら土地を買うどころの話じゃない。何しろ全財産がなくなったのです。家には乳飲み子をはじめとする3人の子供もいる。まずは今日明日の食事の心配から始めなきゃいけなくなった。
そうこうしてる間に土地を買う話は完全に沙汰止みになってしまいました。

よほどオテイは悔しかったのでしょう。当時乳飲み子だったヨシエが大人になってからも、度々この話をしたといいます。
ヨシエ=ワタシの母親も、ワタシに何度もこの話をした。
もしあの時、泥棒に入られなければ、その後お金に困ることは一切なかったのに、と。

以前書いた通り、戦前まで三宮駅の北側は単なる住宅街でした。
それが終戦の翌年に今もあるイスズベーカリーが出来たり、少しづつですが都市部らしくなっていきます。当然地価も跳ね上がった。
だからもし、土地を購入することが出来たなら、莫大な財産(売る時期によって異なるけど、ま、少なく見積もってもン十億)になったに違いない。
まァ、祖母や母が悔しがるのも当然ですな。いや本当はワタシだって悔しいよ。タイムマシンがあったら現金持って駆けつけたいくらい。
そうなったらそうなったで、ワタシは消滅するのかもしれないけど。

バック・トゥ・ザ・フューチャーみたいな話はいいや。

1950年になって朝鮮戦争が勃発し、この頃から日本の景気というか産業は本格的に復興したと言われています。
が、先の泥棒騒動で憑き物が落ちたのか、その恩恵はヨシミツ家には回ってきませんでした。
センゾウは元々商売人ではなく、間違っても商売上手じゃなかった。前々回「最初はガラス屋だった」と書きましたが、鍛冶屋に転じたのも儲かるから、ではなくガラス屋が嫌だったから、という個人的な理由です。

それでも鍛冶屋になったことが幸いして、戦前戦中は時代の恩恵を受け、中流といえる生活を送ることが出来ていました。
ところが戦後から流れが変わった。時代の恩恵すら受けられなくなってきた。
工場自体は無事だったので細々と鍛冶屋を続けることは出来ましたが、ヨシミツ家はあっという間に「貧乏」にカテゴライズされる家になってしまったのです。

この「ヨシミツ家の人々」ではエントリの最初に手持ちの、内容に則した画像を貼っているのですが、1940年代後半の写真がほとんどないんです。
センゾウはカメラが趣味で、ワタシの記憶でも自作の棚に古い二眼レフのカメラを陳列していました。
しかしフィルムが貴重で高価、かつ「貧乏」だったこの時代のヨシミツ家に「ハレとケ」でいうところの「ケ」の写真を撮る余裕はもはやなかった。
今回の写真はたぶん少し時代がズレているはずで、1950年代だと思われますが、ご容赦ください。
ちなみに左端はセンゾウですが、他の方は不明です。おそらく従業員の方でしょうが。

さて、「貧乏」は辛酸を舐めたはずのオテイにとっても辛いものでした。
オテイは前回書いたようにリアリストでしたが、反面相当な善人で、自分の家族の食事よりも困った人に分け与えるような人でした。
むろんそんなことをしてる場合じゃないんだけどね。何しろ自分の家が困ってるんだから。
後年、ヨシエはこんな風に語っています。

「お母ちゃん(=オテイ)はお客さんが来たら、いったいどこで手に入れてきたのか、缶入りの焼酎を振舞っていた」

記録を見ても缶入りの焼酎が発売されてたなんて、仮に戦後からだいぶ経った時期だったとしても、どんな資料でもそんな存在は確認できない。
でもまだ幼かったヨシエ=母は、よほど缶入り飲料が珍しかったのか、はっきり記憶しています。
(缶入りの飲料がメジャーになるのは1960年代以降のことです)

極貧とまでは言わないけど、相当厳しい生活を強いられることになったヨシミツ家ですが、根っからのモダニストであるセンゾウは子供たちに情操教育を始めます。
この話はまた次回。
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