~これでも仕事用です~

ヨシミツ家の人々5

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前回の続きを始める前に。
以前ワタシは「ヤスシは戦時中のことをあまり語りたがらなかった」と書きました。まずはその理由から書いていきます。

終戦前までのヨシミツ家は軍事需要もあり羽振りが良かった。が、戦後になるとセンゾウの商才のなさも手伝って一気に没落します。ま、没落ったって貧乏になっただけで元はたいしたことはなかったんだけど。
みたいな前回書いたことを前提として。

よく仕事に干されると人も離れていく、なんていいます。
センゾウは仕事が干されてたわけじゃないけど、中流から貧乏に転落した、となったら離れていく人もいたようで。
大人であるセンゾウやオテイは「世の中そんなもの」と感じていたでしょうし、まだ幼かったヒデジやヨシエはそもそも戦前の羽振りが良かった頃を憶えていない。
しかしヤスシは違います。

ヤスシは1939年生まれなので、いわゆる学童疎開は経験していない。まだ国民学校(当時の小学校の呼称)に入る前だから当たり前です。
それでも一度、オテイの実家である奈良に家族で疎開しようとしたらしい。が、これをオテイの両親は撥ね付けた。理由は不明ですが(ぼんやりとはわかってるけど、キナ臭い話なのでオミットします)、自分たち夫婦はまだしも3人の子供たちまで受け入れを拒否されたことにショックを受けて、これ以降オテイはさらに実家と疎遠になったといいます。
(疎遠になりながらも終戦後に借金の申し出をして受け入れられた、ということに矛盾がありますが、この辺の事情はもうひとつわからない)

それはともかく、疎開を拒否されたのだからヤスシは両親と弟・妹ととも神戸に居残ることになったのですが、当然「態度が変わった人たち」の様子も目の当たりにしていたわけです。
ヤスシは特に一部の親戚の態度が変わったことがショックだったらしい。あれだけ「ヤスシちゃんヤスシちゃん」と可愛がってくれた親戚は、戦後になってヨシミツ家にお金がないとわかると掌を返したように一切寄り付かなくなった。

この話をヤスシ(叔父)から直接聞いたわけじゃありません。
晩年というか亡くなる前、ヨシエ(母)に打ち明けたそうです。あれは本当にショックだったと。
ヤスシにとって、優しかったはずの叔父さんや叔母さんが掌を返したことはあまりにも大きい出来事で、トラウマになった、といっていい。
しかしこうも言っていたそうです。
「だから僕は、ああいうことを絶対にしない」
ワタシはヤスシ叔父さんには本当に可愛がってもらった。どんな時も。今になって思えばヤスシ叔父さんにいくつ「人生初体験(変なことじゃないよ)」をさせてもらったか。
そういう接し方は彼が死ぬまで変わらなかった。ヤスシは最後の最後まで、ワタシにとって「優しい叔父さん」であり続けてくれたのです。

しかしそれはずっと後年の話。もう一度1950年代前半に話を戻します。
傷を抱えたヤスシを癒したのは映画でした。
モダンで大の洋画党だったセンゾウは、ヤスシに限らず他の子供たちも、もちろんオテイもですが、週に一回の映画鑑賞を欠かしたことはなかったといいます。
当時の三宮には阪急会館や朝日劇場といった洋画専門の大劇場がありましたが、邦画には見向きもせず、洋画だけを毎週観せました。

上の写真はその当時のものです。バックに「黒い絨毯」(バイロンハスキン監督)の看板が見えるので1954年に撮影された、とわかります。
場所は不明ですが、よく見ると松竹のマークらしきものが見えるので神戸国際会館か?当時神戸国際会館で洋画封切館があったか不明ですが。

家族はただ映画を観に行っただけじゃない。映画鑑賞後は必ず一家揃って中華料理を食べにいったそうです。
中華料理ったってちゃんと回るヤツですよ。とはいえヨシエ=母に言わせれば

「そんなん今と全然違うから。当時の感覚でも今みたいに高いことはなかった」

と言いますが、それでも一家で映画を観て中華料理を食べに行ったら、それなりの金額になる。

しかししつこく書いている通り、当時のヨシミツ家は本当に貧乏だった。ヒデジなどは給食代が払えないからと昼休みに家に昼食を食べに帰っていたといいます。
そんな貧乏な中でもセンゾウは映画による情操教育を止めなかった。自分が観たかったってのもあるんだろうけど、それならひとりで観に行けばいいことで、やはり「これだけはいくら貧乏でも味合わさせてやりたい」という一心からでしょう。
その分、普段の食事は質素そのもので、鍛冶屋という体力を使う仕事にもかかわらず、です。

しかし週に一回のお楽しみは、質素な食事以外にも代償がありました。
それはヤスシもヒデジも、学校が終わると鍛冶屋の仕事を手伝わされた。それも夜遅くまで。当然遊ぶ時間なんてありません。
今の感覚でみればとんでもない家っぽいですが、自営業の家なんて当時はどこもそんなもんで、少し後の時代ですが、アカオカズミの兄も学校が終わると仕事を手伝わされたといいます。
さすがに女の子であるアカオカズミや、ヨシミツ家でいえばヨシエは手伝わなくてよかったそうだけど。

それでもヤスシもヒデジも不満はなかった。それが当たり前の時代だったし、何たって週に一度のお楽しみ、日曜日になれば大好きな映画が観られる。そう思うだけで頑張れた。
終戦直後から発刊された「スクリーン」誌は創刊号から買っていたらしく、平日、仕事が終わったらスクリーンを読んで映画の予習と復習が出来る。
むしろ贅沢をさせてもらってるという感覚だったそうで、この事はヤスシもヒデジも、そしてヨシエも、センゾウに感謝しています。

さて、1950年代の半ばになって、家族が増えるのですが、それは次回に。
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