~これでも仕事用です~

エノケン映画・時代劇補足

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今回時代劇モノ14本を取り上げたのですが、まだ二本ほど「抜け」があります。
ともに未見ですが、「兵六夢物語」はともかく「エノケンの金太売り出す」はフィルムが現存しているかどうかすら定かではないので、観るのはちょっと難しそうだけど。

さて、一部例外を除いて、エノケン時代劇にはフォーマットがあります。
罪人になったエノケンが江戸に居られなくなって宿場町を逃げ歩くのですが、そこで追っかけがあったり、淡い恋があったり、歌ったりするわけです。
ところがこれが意外と面白くならない。キモチはわかるのですが、結局ただエノケンが転々としてるだけで、その土地土地にちなんだギャグがあるわけでもないし、方言もまた然り。つか京都が舞台のはずの「近藤勇」や「鞍馬天狗」でさえ全編江戸言葉で通しているんだけどね。

むしろ面白みを感じたのは、上記のフォーマットから外れた「誉れの土俵入」や「天晴れ一心太助」であり、エノケン映画特有の、ゆったりとしたテンポが活きるのです。
反面、「彌次喜多」なんか良くいえば快調なテンポだけど、あきらかにエノケンとテンポがあっていないから、せわしなさが先に立ってしまっている。

今回紹介した14本のうち、「ちゃっきり金太」や「法界坊」などは、無惨といえるような大幅カット版しか現存していません。他も欠落の目立つ作品が多く、そうなると多少なりとも評価をカサ増しすべきだとは思います。
とはいえ、それでも個人的には現代劇モノに比べると落ちます。

何度も書くけど、やはり今の目でエノケン映画を観ても、笑えないんです。正直喜劇映画で笑えないってのは致命的で、じゃあ笑い以外の箇所に価値を見い出すしかない。
「續・千万長者」の冒頭、ナレーションで正篇のあらすじの説明があるのですが、バックがクルマで銀座の時計台から有楽町界隈を走り抜ける映像で、もうそれだけで価値があるし、単純に楽しい。

当たり前だけど、時代劇じゃこういう楽しさは全然無いんですね。
戦前はまだあちこちに江戸情緒を感じる街並みが残っていた。だから時代劇といえどロケも多い。だけれども一歩間違うと、今もあるような、単なる田舎の風景に過ぎず、歴史的価値は現代劇に比べると薄くなる。
衣装もそうで、時代劇は着物だから歴史的価値はないけど、現代劇は主要登場人物に限らずエキストラのファッションを見てるだけでも楽しい。

これは見解の相違がある人が多そうだけど、個人的には「喜劇人主演の喜劇映画は、ストーリーが単純であればあるほど良い」と思っています。つまりストーリーで魅せるってこと自体が意味ないと思っている。
実はこれ、ミュージカルでも同じで、ややこしい、といえば悪いですが、凝ったストーリーだと、観客はハナシを追うのに必死になって音楽シーンを楽しめない。

エノケン映画は音楽喜劇です。となるとなおさらストーリーは単純でなければならない。面白いギャグはいるし、面白い設定はあっていいけど、面白いストーリーはいらない。
どうしても「ストーリーが面白い喜劇、ミュージカル」が作りたいのであれば、コメディアンや歌手ではなく役者がやればいいんです。そっちの方がいいモノが出来るに決まってる。
極端にいえば、エノケン映画はエノケンの歌なり動きを楽しむためのものなんだから、邪魔な小難しいストーリーは排除しなきゃならないわけで。

偶然かどうかわからないけど、以前書いた現代劇モノはどれもストーリーは単純極まりないものばかりです。ところが時代劇モノは、妙にガッチリしたストーリーがあるものが多いんです。
「ちゃっきり金太」だって、余計な登場人物は排除して、延々金太と倉吉だけの追っかけにすれば良かった。
そうであれば、仮に「総集編」と称する短縮版しか現存しなくても、もうちょっと評価の対象になったはずなんです。

現代劇モノより時代劇モノが量産された背景には、当然ソロバン勘定があったのはわかる。当時の観客を鑑みれば、より馴染みが深い時代劇フィクションの方が純粋に楽しめたってのもわかる。
でも、今の目で観た時、歴史的価値に劣る時代劇モノの評価が全体的に低くても、まあ、しょうがないとも思うわけで。
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