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~これでも仕事用です~

戦後モダニズム1〜りんごの唄と東京ブギウギとふたりの喜劇王〜

戦前モダニズム 1960年代
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毎週金曜日は1960年代の話、もしくは芸能以外の戦前モダニズムについて書いているのですが、今回は補足的な意味合いも込めて、芸能における戦前モダニズムから1960年代の間のこと、とくに終戦直後の頃のことを中心に書いていきます。

正直二十一世紀に住む人間からすれば、戦争が終わったからといって、そこまで生活や感覚が激変すると思えないのですが、芸能分野を見る限り、事実として間違いなく大きく変化しています。
さて私見ですが、「りんごの唄」や「東京ブギウギ」が、敗戦によって傷ついた日本人を勇気付けた、みたいな話はもはや定番化してますが、どうも後付け臭い。
そもそも「りんごの唄」と「東京ブギウギ」では2年もタイムラグがあって、この混乱期の2年は平穏時の10年に匹敵します。だからこの2曲を同一の環境下で流行ったと見做すべきではないんじゃないかと。

松竹歌劇出身の並木路子が歌った「りんごの唄」は、もう、本当に戦争が終わった直後で、感傷的な曲でないと受け入れられない「時間帯」だった。どうも「時代」と書くと数年スパンのイメージになりそうだから、あえて「時間帯」という言葉を使ってみました。
「りんごの唄」の発売は1946年1月ですが、この曲が主題歌として大々的に使われた映画「そよかぜ」の公開が1945年10月ですから、「戦争が終わって、ほんのすぐ」に流行した曲と言い切れます。

よく聴くとこの曲、メロディやアレンジは戦前風なのですが、歌詞は戦後でないと成立しないものになっている。
何しろ出だしが「赤いりんごに」です。「きりしま事件」の例を見るまでもなく、もし戦前に発表していたら特高に「言い掛かり的吊るし上げ」にあった可能性が高かった。
ま、あんまり詳しくは書きませんが、この辺のことに興味のある方は特高やきりしま事件で検索してみてください。
(ただしサトウ・ハチローが歌詞を書いたのは戦前で、その時は検閲不許可になったとされる)

そして2年後です。
阪神大震災や東北の大災害を思い出していただきたい。むろん2年後でも爪痕は皆無なわけがないのですが(そして一部は今も続いている)、災害直後と2年後で状況が大きく変わっていて当たり前なんですよ。
それは戦前戦後も同じでして。

話が逸れるようですが、芸能におけるモダニズムとは、良くいえば「夢のあるファンタジィの世界」、悪くいえば「何の現実味もない絵空事」なんです。
レビュウだったり音楽喜劇は、戦後の象徴ともいえるリアリズム溢れるエネルギッシュなフィクション(その代表格が「肉体の門」)に太刀打ちできなかった。生々しい表現を用いるならば、戦前戦中が「タテマエ」の世界だとするなら、(先述の通り、終戦直後は別として)戦後は「ホンネ」の世界に、変わり果てていた。
抑圧から解放された反動か、生身の人と人がガチンコでぶつかり合う時代になったのです。

戦前モダニズムを語る上での重要人物である笠置シズ子が歌った「東京ブギウギ」は、明るい旋律とか歌声とか、そんなのは関係なくて、笠置シズ子のバイタリティーが受け入れられたんだと思うんですね。
当時笠置シズ子の人気を支えたのは働く女性、もっとはっきりいえば夜の蝶たちだったといいます。これも確証めいたものはないのですが、なんとなく信用できる。
詳しくは書きませんが、今でいえばシングルマザーにならざるを得なかった笠置シズ子は、乳飲み子を背負って劇場を飛び回っていたのです。もちろんステージではそんなことはオクビにも出さずに、あくまでご陽気に歌い踊っていました。

だけれども「実は乳飲み子を抱えて」みたいな話はマスコミによって広められた。その手の苦労話はかなり控えめな表現に抑えられているとはいえ、一応笠置本人が書いた自叙伝もこの時期に出版されていますし。(「一応」としたのは、形態としてほぼゾッキ本であること、そして内容的にもかなり意図的に嘘が散りばめられているためです)
一見享楽的なフラッパーでありながら、その裏には「暗さ」を隠し持っている。それを見聞きした夜の蝶が笠置シズ子に強く感情移入したのは当然で、重い十字架を背負いながらもエネルギッシュにたくましく生きる笠置シズ子を他人とは思えないってのは十分理解できます。

戦前モダニズムの旗手だったエノケンとロッパは、「リアリズム溢れるガチンコの世界」とは水が合わず、結果徐々に人気は衰退していきます。
あくまで戦前のやり方に固執したロッパの凋落は日に日に強くなりましたが、エノケンは「エネルギッシュな」笠置シズ子とコンビを組んで、舞台と映画の両方でダブル主演という形で1950年代前半まで続けます。

もともとエノケン笠置シズ子も戦前モダニズムの人だから、戦前期に共演はなくても、息は合う。笠置シズ子という相棒のおかげでエノケンの人気はギリギリで保つことができたわけで。
それでもです。
たとえば1948年に作られた「歌ふエノケン捕物帖 」なんかを観ればわかるのですが、エノケンと冠が付いているにもかかわらず完全に笠置シズ子に負んぶに抱っこで、「終始リードする笠置シズ子と、付いていくのに必死なエノケン」という構図がはっきり見てとれるのは、嬉しくも、悲しい。

戦前、というか戦中ですが、笠置シズ子もずいぶん辛酸を舐めました。しかし大スタァでなかった分、時代との接触で起こる磨耗は少なかった。つまり本人的にも大衆の感覚的にもくたびれておらず、実は芸歴の長い天才でありながら、戦後に入ってもフレッシュな感覚で活動できた。
ただし世間的には新人に近かったため、一枚看板で舞台や映画をやれるほどではない。そこで磨耗しているとはいえ大看板のエノケンとコンビを組むってのは、意味があることです。もちろん先ほどの通り、エノケンエノケンでメリットがある。
だからこそ5年以上にわたってコンビ主演で活動できたんだと思うわけでして。
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