~これでも仕事用です~

和製クルーナーの始祖ディック、そして後継者

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戦前戦中の音楽といえば、なんといってもジャズです。
何しろクラシック以外の洋楽っぽいものは、ハワイアンであろうがタンゴであろうが、すべてジャズとカテゴライズされていましたしね。

などとエラソーなことを書いてますが、ワタシの戦前戦中の音楽にかんする知識はすべて瀬川昌久氏の受け売りです。
瀬川昌久氏とはたった一度だけお目にかかったことがあり、氏のご自宅でお話しをさせていただいたのですが、この人の「記憶に支えられた知識」はとんでもないものです。それはいくつかの著作からも垣間見えます。
比較的近作の「日本ジャズの誕生」も名著といってよく、すでにご高齢にもかかわらず、まったく衰えを見せない博識ぶりには本当に頭が下がる思いです。

さて、何しろ昭和初期から終戦までの我が国では、ジャズにとってはいわば黎明期といっていい時期ですから、同じプロでもその演奏レベルはかなりの個人差があったといいます。
これは楽器に限らずヴォーカルも同じことでして、とくに初期の頃の人はまったく「ジャズっぽい」歌い方が出来ていない。良くも悪くもキチンとしすぎているのです。
そんな中、ポツポツとですが本格ジャズヴォーカリストといえるような人がでてきます。

ワタシはこれまで、男性ならエノケン、女性なら笠置シズ子の名前を挙げていたのですが、笠置シズ子はともかくエノケンを「戦前を代表するジャズヴォーカリスト」とするのは、かなり乱暴な意見です。
エノケンは上手いのですが、本格派というより傍流で、崩して歌うところにエノケンの本領があったわけですから、代表といわれると、何か違和感が残る。
そこで瀬川昌久氏も推すディック・ミネの名前が浮上してくるのです。

二十一世紀の今、ディック・ミネ=ジャズヴォーカリスト、というイメージは、もしかしたら希薄かもしれません。
ディック・ミネを知らない人が知らないのは当然として、知ってる人でも「演歌寄りの歌謡曲を歌う人」、もしくは「稀代のプレイボーイ」のイメージが強いんじゃないかと。
これはもうしょうがないというか、ディック・ミネは戦前の時点ですでに「ジャズと歌謡曲を並行して歌う人」であり、完璧な歌謡曲である「二人は若い」や「夜霧のブルース」といったヒット曲しか浮かばない人がほとんどだと思うのです。

が、今当時のディック・ミネの音源を聴くと、そんなことはとてもいえない。
1930年代の時点で完璧なクルーナー唱法をマスターした、紛れもないジャズヴォーカリストなのです。
この当時のジャズの代表曲は何といっても「ダイナ」ですが、「唄は廻る」(「The Music Goes Round and Round」)も実に素晴らしい。徹底的に崩して同曲を歌ったエノケンの「浮かれ音楽」と好一対です。

ディックが自ら優秀なジャズメンを集めて作ったディック・ミネ・エンド・ヒズ・セレナーダス(のちにテイチク・ジャズ・オーケストラに改名)の演奏レベルも実に高く、当時としては破格のスイング感です。
完全なインスト物の「ホワイト・ヒート」もだし、半インスト(少しだけディックのヴォーカルが入る)の「スイングしなけりゃ意味ないよ」(「It Don't Mean A Thing If It Ain't Got That Swing」)や「オールマンリバー」なんか、ノイズ混じりの音でなければ誰も戦前録音だと信じないんじゃないでしょうか。

ただ先述した通り、戦後のディック・ミネはジャズヴォーカリストというイメージが希薄になるのですが、これを実に正統に受け継いだ人がいます。
それが植木等です。
植木等というと、どうしても「スーダラ節」をはじめとするコミックソングのヴォーカリストのイメージが強いのですが、終生植木等ディック・ミネを敬愛し、彼の唱法に近づこうと努力していました。

ディック・ミネは1991年に逝去しますが、この年発売された植木等のソロアルバム「スーダラ外伝」で、ディック・ミネの代表曲である「ダイナ」をカバーしています。
が、これが凄い。いわば「完コピ」ともいえるもので、歌詞(「ダイナ」は多種多様な訳詞があって、ディック・ミネ自ら訳詞したバージョンを歌う人はあまりいない)も歌い方も、完全にディック・ミネに倣っているのです。

植木等ディック・ミネを完コピしたのは、レコーディングされたものではこの一曲だけですが(「シャボン玉ホリデー」において「或る雨の午后」をやはり「完コピ」していますが、これも素晴らしい)、もっともっと、やって欲しかったな、と思ってしまいます。
それは希薄になった「戦前を代表するジャズヴォーカリストディック・ミネ」の存在感を高めることにもなったと思うから、ね。