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~これでも仕事用です~

クロサワとエノケン・ロッパ

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戦前期から活躍し、今もなお名前が通じる人は数えるほどしかいません。
その中でもとびきりのビッグネームといえば黒澤明にトドメを刺すのではないでしょうか。

黒澤明エノケンの関係は、実はかなり深い。1936年に東宝の前身のひとつであるP.C.L.に入社した黒澤明が師事したのは、エノケン映画の主要監督である「山さん」こと山本嘉次郎です。だから当然エノケン映画でも助監督を務めています。
初めてサード助監督についたのが「エノケンの千万長者」ですし、「孫悟空」ではチーフ助監督(もっともこれは名目のみに近かったそうだけど。当時黒澤明は「孫悟空」と並行撮影されていた高峰秀子主演の「馬」にかかりっきりだった)、エノケン映画戦前最終作である「天晴れ一心太助」では脚本を、そして終戦の寸前から撮影を開始した「虎の尾を踏む男達」では大河内傳次郎とのダブル主演映画で、ついに「監督」としてエノケンを起用しています。

何故かその後黒澤明エノケンを起用することがなく、結局監督と俳優という関係では「虎の尾を踏む男達」一本こっきりですが、軽演劇系の役者やコメディアンをコメディリリーフに近いアクセントとして使う術はすべてエノケンから始まった、といっても過言ではありません。
例を挙げるまでもありませんが、「生きる」の渡辺篤左卜全、「七人の侍」での再び左卜全、「どてすかでん」の伴淳三郎と再び渡辺篤「乱」での植木等、「夢」でのいかりや長介、「まあだだよ」での所ジョージ、などです。

あと数が多すぎて省略しましたが、藤原釜足は実に13本の映画で使われており、黒澤明のお気に入り役者でした。(藤原釜足についてはまた今度詳しく書きます)
また「椿三十郎」では、コメディアンではないものの数々の喜劇映画で主演してきた小林桂樹コメディリリーフ的に使うなど、「笑い出すまではいかないが、空気を柔らかくする」使い方に長けていました。

戦前喜劇界のもう一方の雄であるロッパは、ですが、実は二度ほどロッパを起用しようと黒澤明は計画していました。

ここで少し話を変えます。
数々の黒澤作品で助監督につき、自身も「裸の大将」や「白と黒」などの作品で監督として辣腕を振るった堀川弘通という人がいます。
堀川弘通は同じ釜の飯を食った4年先輩(年齢では7歳上)の黒澤明に可愛がられ、初監督作品「あすなろ物語」(1955年)では黒澤明が脚本を執筆するほど「深い付き合い」でした。
その堀川弘通黒澤明という人物と作品を「極力客観的に」振り返った「評伝 黒澤明」という著作があり、これが大変面白い。
この本の中で堀川弘通は(戦前文化に興味のあるワタシからすれば)目から鱗の指摘をしています。

『(筆者注・1940年ごろの)日本は(中略)戦争前夜だったが、軍国主義と共に復古主義の時代だった。大正デモクラシーや合理主義は否定され、非合理主義と新浪漫派が時流となり、武士道、禅、能、伝統文化を見直そうという、うねりが大きくなって来た』(堀川弘通著「評伝 黒澤明」より)

こうした時流の中で、黒澤明ブルーノ・タウトというドイツ人の建築家に目をつけます。タウトは日本の古典的建築物に刮目し、後の桂離宮再評価に貢献したとされますが、実際に数年間日本に滞在していました。
この頃、すでに監督昇進が決まっていた黒澤明はタウトをモデルにして「達磨寺のドイツ人」というシナリオを書き、これを自身の第一回監督作品にしようと目論んだのです。
しかし問題は主人公がドイツ人だという点です。本物のドイツ人で日本語が喋れてかつ演技が出来る人を探すというのは、あまりにも困難極まります。
そこで黒澤明が目をつけたのが古川緑波でした。
当時エノケンと並んで喜劇界をリードしていたロッパをドイツ人として起用する、という、今考えても仰天のプランを温めていた、というのです。

結局「達磨寺のドイツ人」は映画としての陽の目を見ることはありませんでした(シナリオは映画誌に発表された)。国策から映画の製作本数が極端に減らされたため、黒澤明の監督デビューが先送りになってしまったからです。
それにしても、これは古川緑波にとっても、後々を鑑みても大きかった。もし「巨匠・黒澤明の第一回監督作品の主演者」としてロッパの名前が刻まれていたなら、戦後の扱いも変わってきた可能性があるんだから。

現実にはロッパは、戦後は人気が凋落する一方で、主役から脇役、挙句は端役といった具合にどんどんランクが下がっていきました。
そんな中で、黒澤明は再びロッパに白羽の矢を立てた。作品名は、もう邦画史上ナンバーワンとの呼び声も高い「七人の侍」。具体的にどの役なのかはわかりませんが、間違いなくオファーを受けています。

ところがロッパはこの話を蹴った。理由は「役が小さすぎるから」です。(「哀しすぎるぞ、ロッパ」によれば、ヤル気を見せずグズるロッパを見かねて、最終的には東宝側が断ったとある)
なんともったいない!と思われるでしょうが、制作前の時点では「七人の侍」が邦画史上ナンバーワン扱いされるような名作になるとは、誰にもわからない。
それでも、以前も書いたように、ロッパの批評眼は抜群で、当然シナリオを読み解く力も長けていました。

そんなロッパが「七人の侍」の話を蹴ったのは、シナリオ云々より、もはや自身のギャラであったり扱いであったりにしか関心がいかない状況にあったからで、つまりそれだけ困窮していたのです。
もちろんシナリオを読み解く力まで「凋落」していたってのも、あるんだろうけど。

結果的にロッパは、黒澤明と交わりそうで交わることが出来なかった。
ロッパは1961年に早逝しましたが、もしロッパが健在なら「どですかでん」(1970年)で伴淳三郎が演じた役はロッパの方がピッタリだし、エノケンも義足というハンデがなければ、晩年何らかの役を割り振られた可能性があると思う。
この辺は、もう寿命とか運命の悪戯とか、能力や資質とは別の力が働いているので、ひと言でいえば「残念」という他ない。

それでも今となれば「黒澤映画に主演格で出ている」ことだけでランクが上がるような風潮の中で、一本だけとはいえ主演したエノケンはともかく、長い間忘れさられた存在だったロッパは「達磨寺のドイツ人」でも「七人の侍」でもどちらかでも出演できていれば、もうぜんぜん死後の扱いも変わった、と思うのですがね。
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