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~これでも仕事用です~

役者としてのエノケン

戦前モダニズム
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「エノケンの魔術師」について書いた時に、ちょっとだけエノケンの向き不向きについて書きましたが、もう少しだけ掘り下げたいと思います。

野村胡堂の原作を斎藤寅次郎監督、エノケン主演で映画化した「磯川兵助功名噺」が、のちに森一生監督、犬塚弘主演で「ほんだら剣法」というタイトルで再映画化された、みたいなことはすでに書きました。
クレージーキャッツのベーシストだった犬塚弘はフシギな役者で、後年にいくにしたがってそういう傾向は弱くなるのですが、少なくともクレージーキャッツ全盛期においては「フィクショナルな役であればあるほど輝く」という類のない役者でした。

若き日の山田洋次が監督したハナ肇主演映画「馬鹿が戦車でやって来る」での頭が弱くて高い所が好きな兵六を手始めに、同じく頭の弱い囚人を演じた「クレージー大作戦」、インディアン役の「クレージー黄金作戦」、インチキ臭い渡世人役の「吹けば飛ぶよな男だが」など、現実離れした役ほどおかしく、またリアリズムを感じさせる芝居を見せたのです。

ところが犬塚弘本人の地に近い、真面目なマイホームパパのような役をやると、どうにも暗くて埋没してしまうんですよ。
(もちろん後年は、ワンシーンしか出てこないような役でも、ただ立ってるだけで独特の存在感を発散する名優になるのですが)

もうひとり、フィクショナルな役の方が輝く、といえば外せない人がいます。香取慎吾です。
如何に彼が「フィクショナルな存在か」は「ドク」「聖者の行進」「透明人間」「忍者ハットリくん」「西遊記」など、作品名を挙げるだけで十分でしょう。
この人も「等身大の若者」みたいな役だと、どうもハマらない。これは彼の内部にある狂気が「等身大」を拒んでいるとしか思えないわけでして。

この始祖がエノケンじゃないかと思うのです。
等身大かどうかはともかく、エノケンがカネに困ったり、恋をしてフラれたりね、本来コメディアンとしてはそういうシチュエーションは「おいしい」はずなんです。チャップリンなんかもう徹底していて、そんな役ばっかりです。
ところがエノケンがやると、どうも上手くない。妙に、悲惨、とまではいわないけど、可哀想になってくる。

しかしね、ファンタジックなストーリーで、フィクショナルな役になると途端に輝きだすんです。
孫悟空」なんか一番わかりやすい。
あんなハチャメチャな映画はね、主役の孫悟空に違和感があると見てられないのですよ。猿の化け物を人間が演じるんだから、どうしても違和感は出やすい。逆にいえば、孫悟空さえハマっていれば、仮に他の役者はハマってなくても見てられる。

夏目雅子三蔵法師を演じた「西遊記」で孫悟空役だった堺正章も実は等身大の役が苦手で、「キッド」や「フジ三太郎」、比較的最近の「無理な恋愛」などの違和感はハンパじゃなかった。(逆に「時間ですよ」などのようなコメディリリーフに徹した役の方が上手くいく)

他のエノケン映画は、まあエノケンじゃなくても作れると思うんですよ。でも「孫悟空」だけは別で、夏目雅子版「西遊記」のように、ファンタジィなんだけどちゃんと作った作品ならともかく、「孫悟空」のような、ハチャメチャな大レビュウ喜劇だけはエノケンでなければ不可能です。
つまりエノケンの個性である、歌えて動けて愛嬌があって、しかもフィクショナルな役に向いてるっていうね、制作の経緯はともかく、結果的には「孫悟空」こそが数あるエノケン映画の中でエノケンが一番輝ける作品になったことは疑いようがありません。

そういう意味では、現代劇より、まだ時代劇の方が向いてるのかもしれません。しかし時代劇は時代劇で制約が多い。どうしても時代劇の「枠」みたいなのがあって、せいぜい劇中で英語詞の歌を歌う程度の自由度しかない。
その点「孫悟空」は完全にファンタジィだと割り切ってるから時代設定にも、「中国が舞台」ということにも、とらわれてないんですね。(何たって当時の最新技術だったテレビモニターが出てくるんだもん)

エノケンは「孫悟空」の翌年に「エノケン竜宮へ行く」(1941年)という舞台をやっており、この作品こそ最後の輝きだったと自ら認めています。
(上の画像は「エノケン竜宮へ行く」のスチール写真より。エノケンの右横は草笛美子。草笛「光子」じゃないよ)
もちろんワタシは観ていませんが、タイトルからして浦島太郎を下敷きにした完璧なファンタジィで、「孫悟空」同様大レビュウ喜劇だったようです。
余談ですが、この舞台は東宝国民劇というエノケン一座と日劇舞踊隊との合同公演の記念すべき第一回作品で、大金がかけられた。
やっぱ、映画でも舞台でも、エノケンが主演する作品は、カネをかければかけるほど見栄えがするものになるんでしょうね。

この後戦局が悪化して、この手のカネをかけたファンタジックなレビュウ喜劇が作れなくなり(「竜宮へ行く」の翌年、東宝国民劇として「桃太郎」をやっているが、時局柄ジャズが使えなかった)、戦後は戦後で、大衆の好みが変化してそういう作風が受け入れられなくなっていた。そしてやっと受け入れられる時代になった頃には、今度はエノケン自身が動けなくなっていた。
つまり映画の「孫悟空」、舞台の「竜宮へ行く」以降、エノケンは本領が発揮できる作品が演れなかったのです。(例外として「エノケンのとび助冒険旅行」(1949年)などはありますが)

それは「作家不足」でも「芸が古びた」からでもない、フィクショナルな役を得意とするエノケンという役者にとって、あまりにも時代が悪すぎただけのことだと思うわけでして。
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