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~これでも仕事用です~

エノケンは和製カンター!

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「エノケンは和製チャップリン?」の続きです。

前回のエントリで、如何にエノケンチャップリンがかけ離れた存在だったかを書きました。
たしかに「エノケンの青春醉虎傳」や「エノケンの誉れの土俵入」「エノケンの爆彈兒」といった映画の中でチャップリンの影響下とも取れるギャグを演じてますが、これは映画としての影響があるだけでエノケン個人の芸とはあまり関係がない。
それより、もっと、モロにエノケンが影響を受けてそうな人がひとりいるのです。

それがエディ・カンター(キャンターとも表記)です。
チャップリンやキートンのサイレント喜劇をご覧になったことがある方でも、エディ・カンターの名前を聞いたことがある人は少ないと思います。
小林信彦著「世界の喜劇人」でさえも触れられておらず、カンターの芸について論じた後世の著作物は(少なくとも日本では)皆無といっていい。

それだけではない。何しろ彼の主演映画がぜんぜんメディア化されていないのです。
ワタシが把握する範囲では、日本でいえば戦前にあたる1945年以前のエディ・カンター主演映画でビデオ化されたものはわずか5本。以降でも、たしか2本くらいだったはずで、とっくの昔にすべて廃盤になっています。
もちろんこれらの映画がDVD化されているはずもなく、昨今本屋で見かける格安DVDボックスの類いにも一本たりとも収録されていません。
さすがに本国アメリカでは数本の主演映画がDVD化されているようですが、これまた全主演映画がDVD化されているわけではない。

はっきりいえば、エディ・カンターは二十一世紀の今では、ほとんど存在そのものが消された芸人なのです。かといって別に悪事を犯してオミットされたというようなことはなく、もう単純に世間から見向きもされなくなっただけなんですね。
チャップリン映画などいまだに研究が続けられていますし、キートンやマルクス兄弟、はたまたハロルド・ロイドでさえ何度も研究の俎上にあがっている。
なのにエディ・カンターは研究対象にすらなり得ていない。立派に一時代を築いたコメディアンなのに。

カンターが一切顧みられない理由ははっきりしています。
たとえばチャップリンやキートンなら、ギャグが笑える笑えないは別にしても、その圧倒的な動きには今の目で見ても感嘆しか出てきません。
フレッド・アステアの優美な動きは、今ではダンスの古典にして最高到達点として崇められ、紳士的振る舞い=アステア、とさえなっています。
マルクス兄弟アナーキーさは今の目でさえ過激で、まったく古びていない。
ところがカンターには、チャップリンその他のレジェンドにある「わかりやすい凄さ」が何一つないんです。

カンターの主演映画に「当たり屋カンター」という作品があり、クライマックスは遊園地での追っかけになっているのですが、これがまったく見せ場になっていない。
もしこれがチャップリンやキートンならパントマイム芸で大きな見せ場にしてしまったことは容易に想像できます。
ところがパントマイム芸人ではないカンターにはそれが出来ない。ジェットコースターに捕まって、みたいなギャグも本当に出来ないからスクリーンプロセス(簡易合成)で誤魔化している。
これでは「カンターを観たけど、チャップリンなんかと比べるとなぁ」となってしまって当然です。

カンターの本芸は、正直相応しい言葉がないので難しいのですが、いうならば「レビュウ芸」もしくは「歌芸」といえるものでした。
本格的ヴォーカリストではなく、ユーモラスに、そして自在に歌い踊る芸、とでもいえばいいのか。
歌うこと自体はアステアも劇中で散々歌っているし、マルクス兄弟だって結構歌っている。しかも彼らとて下手ではない。しかもプラスして本芸のタップや毒舌もあるわけで、今カンターを観て、これだけ?と思われるのはやむを得ないとは思うのです。
もちろんカンターの主演映画を観れば、実に軽快で、アステアほどではないけど踊れるし、チャップリンやキートンほどではないけど動ける、そんなにレベルの低いコメディアンではないとわかるのですがね。

エノケンがカンターの影響をまともに受けているのは明白です。
パントマイム芸人でもタップ芸人でもないエノケンはあくまで音楽寄りの人でした。
悪声を逆利用して、次々とジャスソングを歌っていたエノケンは素養的にも目指すところはエディ・カンターしかなかった。それは色川武大筒井康隆も指摘しています。
エノケンの主演第一作「エノケンの青春醉虎傳」の巻頭、歌われるのはカンターのナンバーの中でも名曲である「Yes, Yes, My Baby Said Yes, Yes!」(「Palmy Days」(邦題「突貫勘太」)挿入歌)の訳詞というか替詞です。

またエノケン映画はカンター映画と雰囲気がとても似ている。
もちろん制作費がぜんぜん違うので、スケールは比べ物になりません。カンター映画はカラー作品もパートカラー作品もあるしね。
ただどちらも音楽というか歌が重要な役割を担う、いわゆる音楽喜劇であり、色川武大に言わせればエノケン映画はカンター映画同様、ガラで喜劇にしていただけで、内容は一種の英雄譚である、と断じています。
エノケン映画の感覚でカンター映画を観ても違和感がないし、逆もまた然り。
単に芸風だけでなく、様々な意味においてエノケンがカンターを意識していたというのは疑いないでしょう。

しかし何度も書きますが、今現在の評価がないカンターの映画を観るのは容易いことではありません。新宿などの旗艦店ともいえるTSUTAYAに行けばレンタルVHSを置いてないこともないけど、そもそももうビデオデッキを持ってない人も結構いるだろうし。んなことをいえばエノケン映画も同じ状況なんだけどね。
観るのが不可能ではないけど気軽ではない。そういった状況も相まってエノケンとカンターの類似性をあらためて語る人は、それこそ色川武大筒井康隆のようなリアルタイムで観ていた人以外はいない。

でももし、まずはエノケン映画、続いてチャップリン映画とカンター映画を観せて、それでも「エノケン和製チャップリンだ」という人は、まァいないはずなんですけどね。

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