~これでも仕事用です~

1961年のプロ野球

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今回は野球の話ですが、専門的というか、この年はこんな選手がこういった成績をあげて、みたいな話じゃありません。
そういうのはつまらないし、それっぽい本でもWikipediaでも見ていただくとして、ここでは「プロ野球という娯楽」という観点から書いていきたいなと。

以前、小林一三のことを書いた際、創設期のプロ野球(当時は職業野球)について書きましたが、戦前のプロ野球は極めて「寂びしい催し物」でした。
観客より両チームの選手を合わせた方が人数が多い、なんてことはザラで、球場が満員札止めになる、なんて夢のまた夢でした。

といっても野球人気自体は高く、関東なら神宮球場で行われた東京六大学リーグ、関西なら甲子園球場で行われた春夏の高校野球ですね。それらはしばしば満員を記録していましたし、人々の話題にもなっていたわけです。
ところがその「野球人気」をプロに持っていくことが出来なかった。場末の遊び人たちが暇つぶしに来る場所、程度のものでしかなかったのです。

それが戦後変わります。
一番大きい要因は、GHQの「ラジオの放送休止時間をなくすように」(戦前戦中は昼の時間は放送が休止されることがあった)という要請から、穴埋めとして毎日昼間にやっていたプロ野球が目をつけられます。(当時は照明設備がある球場が皆無だったので、平日でもすべてデーゲームだった)

戦前のラジオ(いうまでもなくまだ民放放送はなく、今のNHKのみ)は、創設当初に行われた結成大会の中継こそ行いましたが、それ以降は本当にごく稀にレベルで、太平洋戦争が始まってからは一試合とて中継しませんでした。
それが戦後になって、いきなり毎日放送するようになった。これで新しい娯楽に飢えていた一般市民に一気に火が点いたのです。

1948年、1949年、といったあたりが第一次プロ野球ブームですが、1949年末に起こった2リーグ分裂騒動で、ブームは一旦沈静化します。
それが1958年、再びブームの兆しを見せ始めるのですが、いうまでもなく、長嶋茂雄が巨人に入団したからです。

戦前期、恐ろしいほどの人気を誇っていた東京六大学リーグですが、戦後になってプロ野球の台頭による停滞はありましたが、それでもまだまだ高い人気を維持していました。
その東京六大学の最大のスター選手が立教大学長嶋茂雄で、あろうことか六大学人気をすべてプロ野球に持っていった張本人でもあったのです。
つまり「立教大長嶋に魅せられ」た人々は「巨人長嶋に魅せられ」ることになった。

ワタシは関西出身なので阪神タイガースに心を寄せていますが、「プロ野球をここまで大きく育てたのは長嶋茂雄である」という説に何の異論もありません。
長嶋がいたから、多少の浮き沈みはあったにせよ現在も続いている、本気でそう思っています。

さて1958年といえば、もうひとつ忘れることが出来ないのが日本シリーズです。
ルーキーだった長嶋茂雄は第1戦こそホームランを放ちますが、シリーズ通算では打率.231と不調で、後の「大舞台でこそ力を発揮する」燃える男の、ほんの片鱗を見せただけでした。

このシリーズで千両役者ぶりを見せつけたのは長嶋茂雄ではなく、西鉄ライオンズ稲尾和久でした。
巨人3連勝で迎えた第4戦が雨で順延になったことで流れが変わり、そこから西鉄が怒涛の4連勝を果たして逆転日本一に輝いたのですが、投打に快刀乱麻の活躍を見せたのが稲尾で、翌日の新聞の見出しになった「神様仏様稲尾様」はいまだに語り継がれています。

さらに翌1959年には、プロ野球という興行を一段も二段も引き上げる出来事が起こります。
それが天覧試合で、このプロ野球創設以来最大のビッグゲームにケリをつけたのは、前年デビューした長嶋茂雄でした。
一方、その長嶋にサヨナラホームランを打たれたのが、関西大学から阪神に入団したばかりのルーキー村山実
この出来事を境に村山は長嶋茂雄に、そして巨人に異様なほどの敵対心を燃やし、阪神の大エースに育っていくのです。

こうやって見れば、プロ野球が第一線の超人気興行になった理由は一目瞭然です。
長嶋茂雄稲尾和久村山実といった超一級のスター選手の出現、それは首都圏、関西圏、さらには九州という地方、という全国各地にスターがいたということに他なりません。
さらには天覧試合を実現させたことによって、大幅に興行としての格を上げた。もはや戦前期のような「場末の寂びしい興行」とはまったく違った存在にまでなり得たのです。

ここまでは長い前フリ。ここからが本題です。
1961年のプロ野球は、いわば安定期といえる頃で、相変わらず長嶋茂雄は突出した活躍を続けており、村山実もエースに成長した。稲尾和久はこの年年間42勝というとてつもない大偉業を達成しています。
ONのもうひとり、王貞治はまだ一本足打法になる前で(一本足打法は翌1962年夏から)、主力のひとりには違いありませんでしたが、まだ成績的にはタイトルを獲れるほどではありませんでした。

当時の首都圏の子供たちは、みな長嶋茂雄に夢中になっていたといっても過言ではない。
長嶋茂雄に魅せられたひとりにビートたけしがおり、いまだに長嶋茂雄の前だと緊張する、と吐露しているくらいです。
(実際たけしと長嶋が対談とかしたら、たけしがまったくいつものたけしじゃなくなってる)

関西圏の子供は、村山実もそうですが、この頃は阪神タイガースよりも南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)の方が人気があり、エース杉浦忠、4番野村克也にも魅せられていました。
1970年代、80年代の超不人気球団としての南海ホークスしか知らない世代(ワタシもその世代ですが)からしたら、かつては阪神よりも人気があった、観客動員も上だった、なんて信じられないかもしれませんが。

関西圏でも1960年代までは、阪神の人気は三番手くらいで、一が南海、二が巨人、といった感じでした。今のような阪神人気が寡占状態になったのは1980年代以降の話です。
何故南海の人気が凋落したか、逆に阪神の人気はチーム成績とは関係なく伸び続けたのか、本ブログの趣旨からは外れますが、機会があればまた。

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