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モダニズム映画鑑賞記・プロローグ

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さて、ずっと「エノケン映画鑑賞記」というカテゴリで戦前戦中に公開されたエノケン主演映画のことを書いてきたのですが、とりあえず観賞済みの作品についてはひと通り書いてしまったので(未見作品については観れた段階で都度書きます)、少し範囲を広げます。

戦前戦中に作られた音楽映画は、何もエノケンの専売特許ではありませんでした。というか音楽映画を専売特許にしようと目論んでいたP.C.L.がステージで音楽喜劇を売りにしていたエノケンを引っ張ってきたという方が正しい。
だからエノケン映画はもちろん音楽映画なんだけど、エノケンが出ていないP.C.L.映画も、ある時期まですべて音楽劇だったのです。

これには明確な理由があります。
まずP.C.L.という会社はもともと録音スタジオとして出発したという経緯があり、自主制作で映画を撮り始めたものの、はじめからトーキー以外作る気のない会社だったのです。
ハリウッドがサイレントからトーキーに移り変わる際に売りとなったのが音楽劇であり、音が入るなら、まず音楽劇だ、という風潮があったわけです。

次にP.C.L.はあくまで新興の映画会社だったので、役者がまったくいない状況でした。
専属といっていいのは大川平八郎と千葉早智子、堤眞佐子くらいで、あとはヨソからかき集めるしかなかった。
音楽劇を作ることを目的としているのですから新劇や歌舞伎界から引っ張ってくるわけにはいかない。つーか意味がない。
望むのは「歌える」ということなんだから。

かき集め先のひとつが歌手。演技より歌優先という事情もあって、他社では難しかったスタァ歌手の映画出演を実現させます。
もうひとつが、今でいうところの軽演劇の役者。音楽喜劇を売りにした劇団は数多くあり、そのうちのひとつ、というか最大の人気劇団がピエル・ブリアント、のちのエノケン一座だったわけです。

だからエノケンを引っ張るのは当然のことで、エノケン一座以外の軽演劇系の人も当時のP.C.L.映画に出演している。
名前を挙げるなら、古川緑波徳川夢声藤原釜足といった人たちで、古川緑波などは自ら東宝で一座を作る前から脇役としてP.C.L.映画に出演しています。

さらにP.C.L.の経営に東宝の創設者である小林一三が深く関わったことが決定打になります。音楽的志向の強い小林一三並びに東宝との連携は、P.C.L.が音楽映画を中心に据えるに十分な理由となったわけです。
やがてP.C.L.、そしてJ.O.スタヂオ、東宝映画配給が合併して東宝映画となり、さらに東宝本体と合併して東宝株式会社になるのですが、それはもう少し後の話です。

では他社はどうだったのでしょう。
日本初の本格的トーキー映画は松竹蒲田で作られた「マダムと女房」ですが、松竹は音楽映画には積極的ではありませんでした。
ことステージに限れば、松竹歌劇団、それを発展させた男女混成の松竹樂劇団、そしてエノケンのいたピエル・ブリアント、さらに古川緑波のいた笑の王国といった音楽色の強い劇団を抱えていたのですから、もう少し音楽映画の制作に積極的になっても良さそうなんだけど、音楽喜劇を作りたいというエノケンの要望を蹴ったように、かなり保守的でした。

もうひとつの大手である日活はトーキー自体への対応がかなり立ち遅れました。
それでも「うら街の交響楽」や「鴛鴦歌合戦」などを作ってはいるのですが、音楽映画の本数はかなり少なくとどまっています。

いや、もっとはっきりいえば、松竹や日活は別に音楽映画に手を出さなくても、多数の優れたスタッフ、人気のスタァを抱えていたので、積極的になる理由がなかったのです。
かくして音楽映画は、目論み通りP.C.L.→東宝の専売特許になったのです。

ワタシがこのブログで取り上げるのは、戦前「モダニズム」です。
モダニズム映画=音楽映画というのは乱暴ですが、それでも今後取り上げる作品はP.C.L.→東宝中心になると思います。
もちろん、音楽劇でこそないものの、モダニズム劇といっていい松竹大船制作の「婚約三羽烏」なんかも取り上げるつもりですが。

ただ、ね。本当にいいのかな、という気持ちもあるんですよ。
エノケン映画だって、もう十分すぎるくらいマニアックですよ。それでもエノケンという、まァ名前くらいは知られているアイコンがあるだけ大衆的といっていいのですが、今後このカテゴリで取り上げる映画は、誰ひとり出演者を知らない、なんて思われる映画ばっかりです。つまり興味へのとっかかりがない。

だからなるべく現代との接点を探ってね、興味のない人にも興味を持ってもらえるように書ければと思っているのですが、ま、難題すぎますかなぁ。

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