~これでも仕事用です~

服部良一という音神様

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以前こちらのエントリでも触れましたが、今回は全面的に服部良一のことを書いてみたいと思います。

服部良一は、戦前の方が面白いんですよ」

これはジャズ評論家の瀬川昌久氏から直接お聞きした言葉ですが、正に我が意を得たりで、もう、心の底から「そうですよね!」と叫んでしまいました。
ワタシはずっと前からそう思ってて、でも服部良一といえば「東京ブギウギ」にしろ「銀座カンカン娘」にしろ「青い山脈」にしろ、フィーチャーされるのは戦後に作られたものばかり。

でも、そうじゃない、戦前の頃から服部良一は素晴らしかったんだ、と声高に主張したところで、なかなか同意してくれる人がいなかった。
でも瀬川昌久氏がそうおっしゃるんだから、もうこれはワタシの考えは間違ってなかったんだ、と自信になったんです。

服部良一の素晴らしさを語る、なんてことをしたら、もう大絶賛の気持ち悪い文章にしかならないので、角度を変えます。
つまり、何故戦後作品の方が評価が高いのか。

単純な話でいえば、楽曲の知名度が戦前と戦後では比べ物にならない。先ほど挙げたような、二十一世紀の今ですら知られている楽曲は、ほぼ戦後作品に限定されています。
戦前の作品で知名度があるのって淡谷のり子の「別れのブルース」(♪ 窓を開ければぁ〜ってやつね)くらいでしょうか。
あとは、まァ「一杯のコーヒーから」か?
でもどれだけ普通の人が知ってるのかというと、あんまり自信がない。

そもそも何故戦後にヒット曲がいっぱいあって、戦前は少ないか、を考えないといけません。
服部良一は戦前の時点ですでに優秀なコンポーザーでした。しかもヒット曲が作れるだけの能力があることを「別れのブルース」で証明している。
もっといっぱい、やる気にさえなれば大衆的なヒット曲が作れたんじゃないか、と。

もったいぶった書き方をしてしまいましたが、早い話が戦前と戦後では服部良一の立ち位置がまったく違うのです。
たとえば古賀政男を例にとれば、古賀政男はもともとマンドリン(兼ギター)奏者でしたが、いつぐらいまでプレーヤーを続けたのかつまびらかではありません。
わりとすんなり立ち位置を「作曲家」に移動し、もっといえばレコードを売るための曲を作る作曲家になっていきました。

この移行が服部良一の場合、かなり遅かった。いや、晩年までステージで指揮棒を振り続けた服部良一は、譜面だけ作っていればいい作曲家(いうまでもなく編曲も兼ねる)になることを拒否したのかもしれません。

特に戦前はその傾向が顕著でした。
通常オーケストラボックスという客席から見えない位置で演奏していたバンドをステージに上げて演奏させたり、当時としてはかなり野心的なことをやっています。
短命に終わりましたが、松竹楽劇團で音楽監督のような立場だった服部良一は、バンドと歌手が対等な立場で音楽を提供しなければ、日本のジャズ文化(ひいては音楽文化)が育たない、そう考えていたに違いありません。

そんな服部良一の志向がもっとも色濃く反映されているのが、笠置シズ子のために書いた「ラッパと娘」でしょう。
前哨戦として淡谷のり子に「私のトランペット」という曲を作っていますが、これはヴォーカルの淡谷のり子とトランペッターの南里文雄を対等に扱った、かなり画期的な楽曲でした。

これをさらにエスカレートさせたのが「ラッパと娘」です。
これは今でいえば、ヒップホップやレゲエに見られるDJバトルのようなもので、笠置シズ子とトランペッター(レコードでは斎藤<ベンちゃん>広義)の掛け合いは「協調」ではなく「バトル」そのもので、お互いが死力を尽くして負けまいとエネルギーを発散させているのです。

そうした服部良一の野心的な試みは、戦争によって完全に中断されてしまいます。
ジャズが禁止されたためですが、この方策は高圧的なものではなく、実に巧みで小狡い「やり方」なのですが、本エントリと大幅にズレるので割愛。
しかしそんな中でも服部良一は、密かに手に入れたブギの楽譜を研究することによって「来るべき新時代」に備えていたのです。
これが「東京ブギウギ」などの一連の楽曲によって戦後に花開くのはご承知の通りです。

服部良一が試みたプレーヤーからスタァを作る、というのは、奇しくもGHQが用意したステージによって、成し遂げられることになった。
その分、楽曲そのものに野心的試みをぶつけることになります。

一連の笠置シズ子に提供した楽曲がそうで、上方落語の「無いもん買い」から着想した「買物ブギー」、古いスタンダードナンバーの「オールマンリバー」を大胆にビバップと融合した「オールマンリバップ」、ブギと黒田節をマッシュアップした「黒田ブギー」、法華経のリズムを取り入れたといわれる「ジャジャンボ」等々。

だから楽曲単体で見れば、たしかに戦後作品の方が面白いのかもしれません。実際「音」としても実に賑やかで、楽しい。
でも、言い方を変えれば戦後作品は「限られた中での挑戦」であって、戦前のような音楽文化そのものを熟成させよう、という試みに比べたら、やはり小さい、という以外にないのです。

それでもこの人がいなければ、日本の音楽は数段遅れていたに違いなく、戦前も、そして戦後も、何ひとつ方向性を間違えることなく音楽文化に貢献した、という意味で、天才でも名人でもなく、神様、という表現しかないように思うのです。

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