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~これでも仕事用です~

続・おとうさん!

Gumi-chan1961関連

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昨日書いた「おとうさん!」の続きです。

カズミ・アカオの父君であるトミオさんとグミちゃんのお父さんの経歴で完全に同じなのは「気象庁に勤務していた」という箇所です。
勤務地は出身の福井県小浜市から近い福井県敦賀市の気象観測所。電車で1時間ほどの距離です。もちろんこの頃は電化されておらず汽車でしたが。

ただし正確には気象庁ではない。ここで少し堅苦しい話をします。
気象庁の名称というか、気象庁という機関が出来たのは1956年、つまりトミオさんが退職した後のことです。

しかしそれ以前から気象を観測するための機関はありました。
明治時代に内務省から文部省に管轄が移り、1943年に運輸通信省、さらに1945年(戦争末期)に運輸省に管轄が移ります。
つまりトミオさんは、文部省→運輸通信省運輸省の各機関で働いていた、ということになります。

名称はともかく、気象情報を観測するための機関であることには変わりなく、当然トミオさんの仕事は天気予報で活用されるものです。
と言いたいところですが、落とし穴があります。
さらに堅苦しい話をすれば、1941年12月8日。言うまでもなく真珠湾攻撃の日であり、それはアメリカとの開戦を意味します。

実はこの日を境に、ラジオを通じて天気予報は行われていません。再開は終戦後ですから、戦争中は一般市民は一切天気予報を知ることができなかったのです。
もちろん敵国に天気を教える必要はない、という情報統制の影響ですが、ではすでに始まっていた支那事変は?というと、別に天気予報が中止されるようなことはなかった。
この辺りの事情はもうひとつわからない。遠い敵国より近い敵国の方がより天気なんて情報は有用そうなのにね。

まァ、それはいい。
そんな戦時体制の中でトミオさんが何をしていたか、は、やはり気象にかんすることでした。勤務地が気象観測所なんだから当たり前です。
しかし観測された情報は一般には公開されない。ではどこで活用されたかというと、いうまでもなく「軍事」情報として活用されたのです。

もっと言うなら、当時の天気予報はいわば「重要機密情報」であり、逆にいえば気象観測所からも軍部の動きが手に取るようにわかったらしい。
実際トミオさんも軍部の動きを掴んでいた。そして、かなり早い段階から「この戦争は負ける」と思っていたようです。

昨今作られる映画やテレビドラマで、この時の戦争をテーマにした作品はかなりありますが、正直にいえば間違いだらけです。いや、リアルタイムの空気を知らないワタシでさえ「おかしい」と思うくらいだから、実体験を経た人にとっては正視に耐えられないはずです。

基本的なことですが、少なくとも1944年くらいまでは、誰も日本が負けるなんて思っていなかった。もちろん大本営発表について「どうもおかしい。勝報のニュアンスが『控えめ』になってきている」と一部の鋭い人は気づいていたみたいですが、それでも最終的には「勝つ」と信じ切っていたようで、本当に一般市民がヤバいと思い始めるのは1945年になって日本全国で空爆が激化してからでしょう。
つまり約4年に渡る戦時の中で、危機感を抱いたのはおそらく半年ほどなんです。

でも逆にいえば、負けると思いながら戦時のがんじがらめの生活が耐えられるわけがない。勝つと信じればこそ耐えられたわけです。
しかしトミオさんは違った。職業柄一般市民よりも早く「負け戦さ」を悟った。他の人がわずか半年しか耐えずに済んだものが、もっと早く(具体的にいつかはわからない)知りえて、その期間を「耐え忍んだ」んだから。

この出来事が後年のトミオさんにどれほどの影響を与えたのかは計り知れない。
前回「トミオさんは勝負勘に優れた人だった」と書きました。もちろん「勘」自体も、鋭かったのかもしれない。
しかしそこに独特の諦観も宿っていたはずです。

トミオさんにとって戦争末期は「負けるとわかっていて、なお戦い続けなければいけない」勝負でしたが、商売は「勝つか負けるかはわからない。やりようによっては、自分の力でいくらでも勝ちに繋げることができる」ものです。
だからこそ店の立地や展開の仕方にはこだわった。勝てる勝負に持っていくために。

自動車の時代と予見しながら、まだ自動車など小浜のような小都市ではほとんど走っていない時代、とあって自動車にはこだわらず、荷車の修理から商売を始めました。
そして自転車も手がけた。Gumi-chan1961の設定は自転車屋さんですが、自転車がメインだった期間はほんのわずかで、すぐに本命であるタイヤ販売に切り替えたらしい。もちろんモータリゼーションの時代になったからです。

当時、トミオさんの店で扱っていたのは「セキネ」というメーカーの自転車だったらしい。ちなみに現存しません。
この頃も細々とはいえタイヤも扱っており、タイヤにかんしてはブリヂストンの代理店になっていた。
なら自転車もブリヂストン、となるのが普通ですが、すでにブリヂストンの自転車を扱う店が近隣にあり「地域ごとに1店舗」というブリヂストンの方針があったために扱えなかったのです。

そのうちタイヤの方で売り上げを伸ばし、「地域ごとに1店舗」という縛りもなくなったこともあって、今度はブリヂストンの方から自転車も代理店になってくれ、という話が何度も持ち込まれるようになった。
ところがこれをトミオさんははねつけている。

考えられる理由はふたつあります。
ひとつはすでにブリヂストンの店があること。今さらそこから客を奪うのは容易ではない、という商売上の判断です。
もうひとつが「セキネ」というメーカーに惚れ込んでいたことです。

そもそも何故数ある自転車メーカーからセキネを選んだか、です。これはカズミ・アカオの母君に直接聞いたことがあります。
「そら、セキネが一番シナ(品質)が良かった」
ここらあたりに「売れたらええってもんやない、エエ物を売らんとアカン」というトミオさんの信念が隠されています。

タイヤのパンク修理にかんしても、トミオさんは小浜ではただひとり、という技法を持っていたといいます。
その技法のせいで肺を痛め、早逝されることになったのですが、仮に自分の身を削っても商売を成功させる、というと聞こえが悪いかもしれません。

でも「せっかく自分とこのお客さんになってくれたんや。儲けだけにこだわらんと出来るだけのことをせなアカン」という「情」がなければ身を削ってまでやるわけがない。
今日はちょうど、トミオさんが亡くなって25年目の命日です。
これからワタシたちも、トミオさんの精神は大いに見習わなくては、と痛感しておるのです。

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